「西郷隆盛」の版間の差分

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=== 斉彬時代 ===
嘉永4年([[1851年]])2月2日、[[島津斉興]]が隠居し、島津斉彬が薩摩藩主になった。嘉永5年([[1852年]])、父母の勧めで[[伊集院兼寛]]の姉・[[伊集院須賀|須賀]](敏(敏子)であったとも云われる)と結婚したが、7月に祖父・遊山、9月に父・吉兵衛、11月に母・マサが相次いで死去し、一人で一家を支えなければならなくなった。嘉永6年([[1853年]])2月、家督相続を許可されたが、役は郡方書役助と変わらず、禄は減少して41石余であった。この頃に通称を吉之介から善兵衛に改めた。12月、[[マシュー・ペリー|ペリー]]が浦賀に来航し、攘夷問題が起き始めた。
[[安政]]元年([[1854年]])、上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。4月、「'''御庭方役'''」となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学・[[藤田東湖]]にも会い、国事について教えを受けた。鹿児島では11月に、貧窮の苦労を見かねた妻の実家、伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまい、以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになった。
 
安政
2年([[1855年]])、西郷家の家督を継ぎ、善兵衛から吉兵衛へ改める(8代目吉兵衛)。12月、[[越前藩]]士・[[橋本左内]]が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。安政3年([[1856年]])5月、[[武田耕雲斎]]と会う。7月、斉彬の密書を[[水戸藩]]の[[徳川斉昭]]に持って行く。12月、第13代将軍・[[徳川家定]]と斉彬の養女・[[天璋院|篤姫]](敬子)が結婚。この頃の斉彬の考え方は、篤姫を通じて[[一橋徳川家|一橋家]]の[[徳川慶喜]]を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であり、西郷はその手足となって活動した。