「ラパッロ条約 (1922年)」の版間の差分

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ソビエト・ロシアの支配下にあるか、あるいはソビエト・ロシアが強い影響力を持つ[[ウクライナ・ソビエト社会主義共和国|ウクライナ共和国]]、[[白ロシア・ソビエト社会主義共和国|白ロシア共和国]]、[[ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国|ザカフカース連邦共和国]]を構成する[[グルジア・ソビエト社会主義共和国|グルジア共和国]]、[[アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国|アゼルバイジャン共和国]]、[[アルメニア・ソビエト社会主義共和国|アルメニア共和国]]及び[[極東共和国]]の各ソビエト共和国に対するドイツの関係を認めるため、ラパッロ条約を拡大する補足条約が11月5日に[[ベルリン]]で調印された。
 
また、ソビエト領内でのドイツ軍の軍事訓練を認める秘密の付属条項が7月29日に調印されたが、これは[[ヴェルサイユ条約]]の条項に違反することであった。秘密軍事協定は1923年に結ばれたとする主張もある<ref name="sjbyd21">[[阿羅健一]]『日中戦争はドイツが仕組んだ』小学館、2008年、21頁、ISBN 978-4-09-387814-2</ref>。
 
==影響==
両国ともヴェルサイユ条約のためにかなりの領域と政治的影響力を失ったことから<ref>ドイツはすべての海外植民地と本土の13%を失った。『日中戦争はドイツが仕組んだ』18頁</ref>、ラパロ条約は西側に対して反ヴェルサイユ連合を形成することを意図していた。西側には両国政府の国際的な立場を強化するものとして不安なことと受取られた。
 
ワイマール連合([[:en:Weimar Coalition|Weimar Coalition]])の一員である[[ドイツ社会民主党]]が[[ローザ・ルクセンブルク]]と[[カール・リープクネヒト]]の殺害を含めた[[ドイツ共産党]]への残忍な抑圧に関与し続けていたにも関わらず、[[共産主義]]国家との良い関係を交渉し、維持するというドイツ政府の決定は[[ワイマール共和国]]の多くの保守と極右のグループにとっても警戒すべきことであった。
 
[[ソ連|ソビエト]]の地位が強化されたことは[[ポーランド]]、[[バルト三国]]及び[[フィンランド]]の懸念となった。防衛と外交の分野のより緊密な協力によってこの問題とされた展開に対処する試みは主に議会の抵抗のために失敗している。
 
この独ソ両国の連携は、1933年にドイツで反共産主義を掲げる[[ナチス・ドイツ|アドルフ・ヒトラー政権]]が成立するまで続いた。なお、[[ベルリン条約 (1926年)|ベルリン条約]]で再確認されたが、独ソ間の信頼は1920年代半ばのドイツのイギリスとフランスへの再接近によって弱まった。
 
==軍事的影響==
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