「中華民国憲法」の版間の差分

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=== 戒厳令解除・「動員戡乱時期臨時条款」の廃止と憲法修正 ===
[[五一九緑色運動]]の高まりから、38年間継続していた戒厳令は1987年7月15日に解除され、戒厳令解除後の[[1989年]]12月に立法委員の増加定員選挙、県長、市長、[[台湾省|省]]議会議員選挙、[[台北市]]・[[高雄市]]市議会議員選挙が一斉に行われた。この選挙で結果的に国民党は圧勝したものの得票数は58パーセントに止まり<ref name="goto108">後藤(2009年)108ページ</ref>、一方で本格[[野党]]として初めて選挙戦を戦った[[民主進歩党|民進党]]は6県1市で首長の座を獲得し、立法院においても21議席を獲得して法案提出資格を得た<ref name="goto108"/>。民意が国民党の独裁に反対し、民主化を求めていることが明瞭になった<ref name="goto108"/>。そこで、[[1991年]]4月30日、[[李登輝]]総裁は「動員戡乱時期臨時条款」の廃止を宣言し、翌5月1日より廃止した<ref name="goto108"/>。これに合わせて同日「中華民国憲法増修条文」10か条を公布した<ref name="goto109">後藤(2009年)109ページ</ref>。この憲法修正は、「一機関両段階」と呼ばれる方式によって行われた。憲法修正手続きを定めた憲法第174条には、国民大会代表の5分の1以上の提案を受け、3分の2が出席し、出席者の4分の3の決議がある場合、又は立法院の提案を受け国民大会が承認した場合に修正できることになっている<ref name="goto108"/>。しかし当時の国民大会代表は、中国大陸時代に選出されたまま40年間改選されていない万年議員であり、台湾を対象とする民意代表機関とはいえない<ref name="goto108"/>。そこで第一段階として手続き面での改正を行い、その後第二段階として国民代表大会について民意を代表する機関に改めたうえで実質的な修正を行う必要があった<ref name="goto108"/>。1991年4月の憲法修正後、12月には国民大会代表選挙が行われ、民意を代表する形が整えられた<ref name="goto109"/>。そして1992年5月27日に実質的憲法修正を終え、第2段階に当たる憲法増修条文第11条から第18条がまとめられ、国民大会の手続きを経て、[[1994年]]8月1日に公布された<ref name="goto109"/>。国民大会の地位、総統の職権と選挙方法、司法院、考試院、監察院、地方自治など、大中華民国を前提とする憲法を台湾のみ支配しているという実態に適応させる修正であるが、憲法の条文をそのものを改正したのではない。憲法の既存の規定の適用を停止して、修正条文の適用を優先させた<ref name="goto109"/>。
以下は、中華民国憲法の改正の歴史についての一覧である<ref name="kokubun9">國分(2010年)9ページ</ref>。
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