「西郷隆盛」の版間の差分

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その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年([[1871年]])に[[参議]]として新政府に復職。さらにその後には[[陸軍大将]]・[[近衛都督]]を兼務し、大久保、木戸ら[[岩倉使節団]]の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では[[李氏朝鮮|朝鮮]]開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命されたが、帰国した大久保らと対立する。明治6年([[1873年]])の[[明治六年政変|政変]]で[[江藤新平]]、[[板垣退助]]らとともに下野、再び鹿児島に戻り、[[私学校]]で教育に専念する。[[佐賀の乱]]、[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]、[[萩の乱]]など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった[[西南戦争]]の指導者となるが、敗れて[[城山]]で[[自刃]]した。
 
死後十数年を経て名誉を回復され、[[位階]]は[[正三位]]。功により、継嗣の[[西郷寅太郎|寅太郎]]が[[侯爵]]となる。
 
== 生涯 ==
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=== 死後 ===
明治10年(1877年)2月25日に「[[:s:陸軍大将西郷隆盛外二名徒黨ヲ集合シ悖亂ノ擧動ニ付官位被褫|行在所達第四号]]」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇された。その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があって明治22年(1889年)2月11日、[[大日本帝国憲法]]発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された<ref>『官報』第1683号「叙任辞令」1889年2月12日。</ref>。明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど西郷のことを気に入っていたようである。[[戒名]]は、南州寺殿威徳隆盛大居士。
 
== 人物 ==