「藤田元司」の版間の差分

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漆山更紗 (会話 | 投稿記録)
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==== 先発三本柱 ====
第1次監督時代の先発三本柱は、[[角盈男|角三男]]が抑えに控えていた。一方、第2次監督時代では一転して、先発投手に頑固なまでの完投を求めた。特に1990年は、上記の三本柱に[[宮本和知]]・[[香田勲男]]・[[木田優夫]]を加えた先発ローテーションの6人でチーム88勝のうち80勝を挙げ、完投数は70にも上った結果、年間で使った投手はわずか10人であった。かつてリリーフエースだった角や[[鹿取義隆]]を放出して手薄になっていた中継ぎ・抑え投手には肩に故障を抱えた[[水野雄仁]]や[[廣田浩章]]などが登板していたほか、89年に槙原が4セーブ、90年に木田が7セーブと先発投手が中継ぎ・抑えを兼任していたが専任のリリーフ投手を作らなかった事により分業制が進んで行く球界の時代の波に乗り遅れ91年には先発陣の崩れを支えれず下位に低迷する。任期最終年の1992年には前年の惨敗の反省から[[石毛博史]]をリリーフエースに据えている。
 
* 「投手の肩は消耗品」という考えから、先発投手の調整スケジュールメニューにある「ブルペンでの投げ込み」に関しても、きちんと実績にカウントしてやろうと「どうせやるならマウンドで」と、先発投手に中2日や中3日でショートリリーフさせることもしばしばあった。