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[[ファイル:TombeauCharlesIdeBourbon.jpg|thumb|ブルボン公シャルル1世の石像]]
'''シャルル1世'''(Charles I<sup>er</sup>, [[1401年]] - [[1456年]][[12月4日]])は、[[ブルボン公]]および[[オーヴェルニュ地域圏|オーヴェルニュ]]公(在位:[[1434年]] - 1456年)、[[クレルモン伯]]。公位を継承したのは父[[ジャン1世 (ブルボン公)|ジャン1世]]の死後であるが、ジャン1世は[[1415年]]の[[アジャンクールの戦い]]で捕虜となったまま1434年に[[ロンドン]]で死去しており、実質的にはその間に既に所領の統治を行っている。母は[[ベリー公]][[ジャン1世 (ベリー公)|ジャン1世]]の娘でオーヴェルニュ女公の[[マリー・ド・ベリー]]である。
 
[[1416年]]に母方の祖父ベリー公が死去したことにより、オーヴェルニュと[[モンパンシエ]]が[[ブルボン家]]に相続されるはずだった。しかし王家([[ヴァロワ朝]])がこれを認めず、[[1425年]]になって2つの領土相続が認められたが、王家が課税権・裁判権などを確保、ブルボン家断絶後所領は全て王家に譲られることを約束した上での決定だった<ref>上田、P127 - P128。</ref>。
[[百年戦争]]の間は[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|国王]][[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]に対して忠実であり、[[1428年]]から始まった[[オルレアン包囲戦]]では[[ジャン・ド・デュノワ]]、[[ラ・イル]]らと共に[[オルレアン]]の救援に赴いたが、[[1429年]][[2月12日]]の[[ニシンの戦い]]で包囲側の[[イングランド王国|イングランド]]軍輜重隊を叩こうとして{{仮リンク|ジョン・ファストルフ|en|John Fastolf}}に逆襲され敗北、デュノワらと対立して勝手にオルレアンから離脱した<ref>エチュヴェリー、P169 - P172、ペルヌー、P378 - P380、樋口、P107 - P108。</ref>。しかしシャルル7世に引き続き仕え、同年9月では[[パリ包囲戦 (1429年)|パリ包囲戦]]に苦戦中の[[ジャンヌ・ダルク]]に使者としてシャルル7世の攻撃中止命令を伝達、[[1430年]]に[[コンピエーニュ]]へ派遣されフランスから[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]への引渡しを命じている(成功せず)<ref>ペルヌー、P150、P161、樋口、P120。</ref>。
 
[[百年戦争]]の間は[[ブルゴーニュ派]]に敵対する[[アルマニャック派]]の一員として[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|国王]][[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]に対して忠実であり、[[1428年]]から始まった[[オルレアン包囲戦]]では[[ジャン・ド・デュノワ]]、[[ラ・イル]]らと共に[[オルレアン]]の救援に赴いたが、[[1429年]][[2月12日]]の[[ニシンの戦い]]で包囲側の[[イングランド王国|イングランド]]軍輜重隊を叩こうとして{{仮リンク|[[ジョン・ファストルフ|en|John Fastolf}}]]に逆襲され敗北、デュノワらと対立して勝手にオルレアンから離脱した<ref>エチュヴェリー、P169 - P172、ペルヌー、P378 - P380、樋口、P107 - P108。</ref>。しかしシャルル7世に引き続き仕え、同年9月では[[パリ包囲戦 (1429年)|パリ包囲戦]]に苦戦中の[[ジャンヌ・ダルク]]に使者としてシャルル7世の攻撃中止命令を伝達、[[1430年]]に[[コンピエーニュ]]へ派遣されフランスから[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]]への引渡しを命じている(成功せず)<ref>ペルヌー、P150、P161、樋口、P120。</ref>。
[[1435年]]に[[アラス]]へフランス・ブルゴーニュ講和会議の使者の1人として参加、{{仮リンク|アラスの和約 (1435年)|en|Treaty of Arras (1435)|label=アラスの和約}}を締結させた。しかし、シャルル7世と[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]大元帥が進める軍制改革と貴族への課税に反発、[[1440年]]にデュノワやアランソン公[[ジャン2世 (アランソン公)|ジャン2世]]など他の貴族達と共に[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ]][[ドーファン|王太子]]を擁立して反乱([[プラグリーの乱]])を起こし、リッシュモンに早期鎮圧され所領の一部を没収されている<ref>エチュヴェリー、P214 - P217、P242 - P245、樋口、P144 - P147、P154 - P157。</ref>。1456年に55歳で死去、長男の[[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]が公位を継いだ。
 
[[1435年]]に[[アラス]]へフランス・ブルゴーニュ講和会議の使者の1人として参加、{{仮リンク|アラスの和約 (1435年)|en|Treaty of Arras (1435)|label=アラスの和約}}を締結させた。しかし、シャルル7世と[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]大元帥が進める軍制改革と貴族への課税に反発、[[1440年]]にデュノワやアランソン公[[ジャン2世 (アランソン公)|ジャン2世]]など他の貴族達と共に[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ]][[ドーファン|王太子]]を擁立して反乱([[プラグリーの乱]])を起こし、リッシュモンに早期鎮圧され所領の一部を没収されている<ref>エチュヴェリー、P214 - P217、P242 - P245、樋口、P144 - P147、P154 - P157、上田、P106 - P110、P112 - P126。</ref>。1456年に55歳で死去、長男の[[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]が公位を継いだ。
 
== 子女 ==
[[1425年]]にブルゴーニュ公[[ジャン1世 (ブルゴーニュ公)|ジャン無畏公]]の娘[[アニェス・ド・ブルゴーニュ (1407-1476)|アニェス]]([[1407年]] - [[1476年]])と結婚した。2人の間には6男5女が生まれたが、[[ブルボン家]]嫡流の男系男子は息子の代で断絶することになる。
* [[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]([[1426年]] - [[1488年]]) - ブルボン公
* マリー([[1428年]] - [[1448年]]) - ロレーヌ公[[ジャン2世 (ロレーヌ公)|ジャン2世]]の妃
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* レジーヌ=ペルヌー、マリ=ヴェロニック・クラン著、[[福本直之]]訳『ジャンヌ・ダルク』[[東京書籍]]、1992年。
* [[樋口淳]]『フランスをつくった王 <small>~シャルル七世年代記~</small>』[[悠書館]]、2011年。
* [[上田耕造]]『ブルボン公とフランス国王 <small>-中世後期フランスにおける諸侯と王権-</small>』[[晃洋書房]]、2014年。
 
{{先代次代|[[ブルボン公]]|1434年 - 1456年|[[ジャン1世 (ブルボン公)|ジャン1世]]|[[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]}}
{{先代次代|オーヴェルニュ公|1434年 - 1456年|[[マリー・ド・ベリー]]|[[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]}}
 
 
{{DEFAULTSORT:しやるる1}}