「ウィリアム・キッド」の版間の差分

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そこでキッド自身に海賊たちについての詳しい知識があったため、ベラモント伯に政府の船の指揮官にするようにという提案を出してもらえた<ref name=c138>ジョンソン、(2012)、p138~p139</ref>。しかし理由は不明ながら、この提案は受け入れられなかった<ref name=c138/>。これを聞いたベラモント伯はキッドに船長を務めさせるために新しい船を自身の資金を使って建造し、委任状も自身で手に入れた<ref name=c138/>。{{仮リンク|アドヴェンチャー・ギャレー号|en|Adventure Galley}}{{refnest|group="注"|「冒険号」と訳される<ref>別枝、(1965)、p67</ref>。}}は、287トンの船体で、34門の[[大砲]]と150人の乗員を持つ船であった<ref>コーディングリ、(2000)、p316~p317</ref>(キッド自身も、アドヴェンチャー・ギャレー号の建造費用6000ポンドの内600ポンドを支払っていた<ref>コーディングリ、(2000)、p315</ref>)。キッドは海賊を捕らえていいという権限と{{refnest|group=注|その委任状には{{仮リンク|キャプテン・トマス・テュウ|en|Thomas Tew}}、ジョン・アイルランド、キャプテン・トマス・ウェーク、キャプテン・ウィリアム・メイズ、その他の海賊たちを拿捕する権利を有する旨が記されていた<ref>別枝、(1965)、p68-p69</ref>。}}、その過程で出会ったフランス船も拿捕していいという権限を手にいれた<ref>コーディングリ、(2000)、p314~318</ref>。
 
[[1696年]][[3月1日]]、キッド船長の冒険号は、テムズ川近辺にてイギリス海軍の[[強制徴募]]を受けた<ref name=強制>別枝、(1965)、p75-p77</ref>。これによりキッド船長たちは、19日間にわたってこの地に留められた<ref name=強制/>。1696年5月、プリムスを出発した<ref>ジョンソン、(2012)、p141</ref>。大西洋でいくつかの小さな船を襲った後、彼はニューヨークに向かった<ref name=ニューヨーク>別枝、(1965)、p77-p79</ref>。この地で襲った船の略奪品を売却したり強制徴収によって削減された冒険号のクルーを補充したりした<ref name=ニューヨーク/>。[[9月]][[7日]]にこの地を発った<ref name=ニューヨーク/>。
 
その後[[マデイラ島]]に行ってワインや必需品を、[[ボア・ヴィスタ島 |ボナヴィスタ]]では塩を、[[サンティアゴ島|セントヤーゴ島]]では食糧を積み込んだ<ref name=c142>ジョンソン、(2012)、p142</ref>。そして[[1696年]][[9月]]、海賊たちの巣窟[[マダガスカル]]を目指した<ref>コーディングリ、(2000)、p319</ref>。そして[[1697年]][[2月]]、マダガスカルに到着した<ref name=c142/>。しかし海賊たちは略奪に出ていて島にはいなかったために[[マラバール海岸|マラバー海岸]]に向かい、6月に到着したがここでも成果はなかった<ref name=c142/>。