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'''築山殿'''(つきやまどの、生年不詳 - [[天正]]7年[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]([[1579年]][[9月19日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての女性。[[徳川家康|徳川家康(松平元康)]]の[[正室]]。名は未詳、年齢も未詳<ref>[[中村孝也]]『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、91頁)</ref>。だが一般的には築山殿、'''築山御前'''(つきやまごぜん)、または'''駿河御前'''(するがごぜん)ともいわれる<ref>中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、92頁)</ref>。岡崎の築山に住んでいたことから築山殿とよばれる<ref>『桑田忠親著作集 第六巻 徳川家康』(秋田書店、1979年、44頁)</ref>。{{要出典範囲|date=2017年4月|築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。}}
 
父は関口刑部大輔義広<ref>中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、91頁)</ref>。
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=== 転機・幽閉 ===
永禄3年([[1560年]])[[5月19日 (旧暦)|5月19日]]の[[桶狭間の戦い]]にて伯父の今川義元が討たれ、元康(元信から改名。のちの家康)は岡崎に帰還することとなった。永禄5年([[1562年]])3月、父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が[[織田信長]]と同盟を結んだ事で[[今川氏真]]の怒りを買い、正室と共に自害した。築山殿は、[[石川数正]]が駿河に来て今川氏真を説得し、[[鵜殿氏長]]・[[鵜殿氏次]]と築山殿母子との人質交換をすることで、駿府の[[駿府城|今川館]]から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った<ref>中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、108頁)</ref>。{{要出典範囲|date=2017年4月|しかし、築山殿を嫌う家康の生母・[[於大の方]]が[[岡崎城]]に入ることを許さず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの[[総持尼寺|惣持尼寺]]で、幽閉同然の生活を強いられたという。}}
 
永禄10年([[1567年]])、信康と[[織田信長]]の長女・[[徳姫]]が9歳同士で結婚する<ref>中村孝也『徳川家康公傳』(東照宮社務所、1965年、112頁)</ref>。{{要出典範囲|date=2017年4月|しかし、築山殿は依然として城外に住まわされたままであった。}}