「甲申政変」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
加筆
m →‎日本: 微調整
158行目:
=== 日本 ===
{{See also|脱亜論}}
朝鮮において親日派による日本の政治的・経済的影響力を強めていこうとする構想は完全に破綻し、やがて、軍事的に清国を破ることで朝鮮を日本の影響下に置くという構想に転換した<ref name="sasaki224"/>。朝鮮政府はいっそう深刻清国との結びつきをいっそう強めた<ref name="sasaki224"/>。しかし、天津条約によって日本がかろうじて緊急時出兵権を得て、相互事前通告の規定を設けたことは10年後の[[日清戦争]]の伏線となった。
 
日清関係は悪化したとはいえるものの、しかし、のちの日清全面対決に即座につながったわけではなかった<ref name="sasaki224"/>。政治・外交レベルでは、この段階で日本が強引に進出した場合、イギリス・ロシアなどがそこに割って入ってくる可能性は十分にあり、現に巨文島事件なども起こっているので、その危険を回避するためにも、日本にとって朝鮮の独立が維持されることが望ましかった<ref name="sasaki224"/>。当時の政府当局者のあいだでは、もし日本と清国が干戈を交えることがあれば、それは列強のえじきになりかねないという認識をもっておが主流であり、それ同様の論説は清国同様であっ存在した<ref name="sasaki302">[[#佐々木|佐々木(1992)pp.302-305]]</ref>。政府内では清国の軍事力高く評価されており、強硬論はごく少数であった<ref name="sasaki224"/>。しかし、壬午軍乱・甲申政変を経たことによって、[[山県有朋]]らによる軍備拡張論が高まを唱えるようになり、大蔵卿[[松方正義]]による緊縮財政のもと、[[デフレーション]]と[[不況]]に苦しむ国民生活のなか、政府はあえて増税を断行し軍備を拡張した<ref name="sasaki224"/>。壬午軍乱は軍事費予算の増加が図られたが、甲申政変後はとくに軍員の増加が顕著になった<ref name="sasaki224"/><ref name="sasaki302"/>。
 
この政変によってむしろ大きく変わったのは、一般の日本国民の中国を見る目が大きく変化しであった<ref name="sasaki224"/>。上述したように、日本国内では[[マスメディア]]が清国軍の襲撃と居留民の虐殺を大きく報道したこともあって、「清国討つべし」の声が高まり、各地で義勇兵運動や抗議・追悼集会が開かれたのである<ref name="makihara278"/><ref name="sasaki224"/>。
 
[[ファイル:Yukichi Fukuzawa.jpg|thumb|150px|「[[脱亜論]]」を発表した福澤諭吉]]
朴泳孝・金玉均ら独立党を全面支援してきた[[福澤諭吉]]は、この事件で朝鮮・中国に対して深い失望感を覚え、とりわけ開化派人士や幼児等も含むその近親者への残酷な処刑に強い衝撃を受けた<ref name="kinefuchi97"/>。自身が主宰する[[1885年]](明治18年)[[2月23日]]・[[2月26日]]付の『[[時事新報]]』に「[[脱亜論#「脱亜論」掲載前の論説|朝鮮独立党の処刑]]」と題する[[社説]]では、「権力を握る者が残酷に走るのは敵を許す余裕なき『鄙怯(ひきょう)の挙動』であり、隣国の『野蛮』の惨状は我が源平の時代を再演して余りある」と論評して、その憤りを吐露した<ref name="un20"/><ref name="kinefuchi97"/>。そして、[[3月16日]]付『時事新報』には「我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予あるべからず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし(中略)、亜細亜東方の悪友を謝絶する」という[[脱亜論]]を発表した<ref name="un20"/><ref name="sasaki224"/><ref name="kinefuchi109"/>。これは、[[ヨーロッパ]]を「文明」、[[アジア]]を「未開野蛮」とみて、日本はアジア諸国との連帯を考慮せずに西欧近代文明を積極果敢に摂取し、以後、西洋列強と同様の道を歩むべきだとする主張であり、従来の日・清・朝がともに文明化して欧米列強の侵略を阻止しようという考えからは大きな転換であった<ref name="un20"/><ref name="kinefuchi109"/>。さらに、[[8月13日]]には社説「[[脱亜論#「脱亜論」掲載後の論説|朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す]]」を掲載し、「今朝鮮の有様を見るに王室無法、貴族跋扈、税法紊乱して私有の権なし。政府の法律不完全にして無辜の民を殺し、貴族士族の輩が私欲私怨で人を拘置し殺傷すれども訴へるに由なし。栄誉に至りては上下人種を異にし、下民は上流の奴隷に過ぎず。独立国たるの栄誉を尋れば、政府は世界の事情を解せず、いかなる国辱を被るも憂苦の色なく、朝臣らは権力栄華を争ふのみ。支那に属邦視されるも汚辱を感ぜず。英国に土地を奪はれるも憂患を知らず、露国に国を売りても身に利あれば憚らざる如し」と論じて、朝鮮がこのまま王室による[[専制体制]]にあるよりは、むしろイギリスやロシアなどの「文明国」に支配された方が人民にとって幸福であるという意見を表明するに至った<ref name="un20"/><ref name="kinefuchi121">[[#杵淵|杵淵(1997)pp.121-133]]</ref>。これは、いわば極論というべきものであり、この社説により『時事新報』は「治安妨害」の事由により1週間の発行停止処分となった<ref name="kinefuchi121"/>。このような一連の福澤の言論は、のちの日本の対外思想に少なからず影響をあたえたという指摘がある<ref name="un20"/>。しかし実際には、[[第二次世界大戦]]後、福澤の朝鮮論の代名詞として扱われがちな「脱亜論」は、当時にあっては必ずしも取り立てて注目されるほどの論説ではなかったのであり、事実、政変後の日清協調の時節にあって福澤は「赤心を被て東洋将来の利害を談じ、両国一致して朝鮮を助け(以下略)」との社説も発表している<ref name="kinefuchi001">[[#杵淵|杵淵(1997)pp.1-3]]</ref><ref name="kinefuchi135">[[#杵淵|杵淵(1997)pp.135-148]]</ref><ref group="注釈">杵淵信雄は、福澤はリアリストであり、同時に、何よりも日本の独立自尊を願う点では一貫していたと評している。[[#杵淵|杵淵(1997)p.137]]</ref>
 
この政変は[[自由民権運動]]にも大きな影響をあたえた<ref name="sasaki224"/>。1885年12月、自由党左派の[[大井憲太郎]]らが朝鮮にわたってクーデタを起こし、清国から独立させて朝鮮の改革を行おうとする[[大阪事件]]が起こっている<ref name="sasaki224"/>。
 
== 脚注 ==