「河野通久 (鎌倉時代)」の版間の差分

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[[承久の乱]]において、父や兄の[[河野通政 (鎌倉時代)|通政]]ら一族のほとんどが[[朝廷]]方についたが、通久のみは母方の縁で[[鎌倉幕府]]方についた。乱の終結後に父は配流されて通政をはじめ他の者も戦死もしくは処刑されたために河野氏当主になるが、通久を当主とする惣領家と別の兄である[[河野通広|通広]]や配流後に赦免を受けた通政の遺児らわずかな庶流しか残らず河野氏は大きな打撃を受けた。
 
通久は戦功によって幕府から[[阿波国]][[富田荘 (阿波国)|富田荘]]の[[地頭職]]を与えられたが、通久の望みを入れて[[貞応]]2年([[1223年]])に伊予国[[久米郡 (愛媛県)|久米郡]]石井郷(現在の[[愛媛県]][[松山市]])の地頭職との交換が認められた。また、[[源頼家]]の遺児である[[竹御所]]の近臣として仕え、彼女が死去した時に出家して葬儀に参列した者の名簿(『[[明月記]]』[[文暦]]元年8月26日条裏引用「関東出家輩交名」)の中にある「川野九郎左衛門」を通久に充てる説がある。
 
嫡男に[[河野通時|通時]]がいたが、通久の側室と密懐(密通)の疑いを持たれて[[義絶]]したため、その弟である[[河野通継|通継]]を後継者として[[文永]]4年([[1267年]])に惣領の地位を譲った(ただし、密懐の話は通時・通継間の訴訟において双方が相手の密懐を主張しており、実際の廃嫡理由は別にあった可能性もある)。また、娘の1人が[[河野通有]](通継の嫡男、通久には孫)の室になって[[河野通盛|通盛]]を生み、河野氏惣領家は通久ー通継ー通有ー通盛と継承されることになった。