「ジョージ6世 (イギリス王)」の版間の差分

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国王ジョージ5世は、長男の王太子エドワードの言動に心を痛めており「長男(エドワード)が結婚しないことと{{ref|baptism|b}}、バーティ(アルバート)とリズベット(エリザベス2世)、そしてイギリス王位に何事も起こらないことを神に祈る」と漏らしていたといわれている<ref>Ziegler, p. 199</ref>。1936年1月20日にジョージ5世が死去し、王太子エドワードがエドワード8世としてイギリス国王に即位した。ジョージ5世の棺は、国民との告別の儀のためにウェストミンスター・ホールに安置された。そして、棺の四隅に立って亡き国王を見守る礼典 ([[:en:Vigil of the Princes]]) は、新国王エドワード8世、ヨーク公アルバート、グロスター公[[ヘンリー (グロスター公)|ヘンリー]]、ケント公[[ジョージ (ケント公)|ジョージ]]の四兄弟がその任に当たった。
 
国王に即位したエドワード8世は未婚で、子供もいなかったため、アルバートが[[推定相続人|推定王位継承者]]となった。即位後一年も経たない1936年12月11日に、エドワード8世は二度の離婚歴のあるアメリカ人女性[[ウォリス・シンプソン]]との結婚を選択して、王位の放棄を宣言した。以前からシンプソンとの結婚を望んでいたエドワード8世だったが、当時の首相[[スタンリー・ボールドウィン]]からは、アメリカ人の平民で、未亡人でもない離婚歴のある(さらにドイツの駐英大使である[[ヨアヒム・フォン・リッベントロップ]]との関係さえ噂されていた)女性と結婚すれば王位にいられなくなると反対されていた。そして、エドワードはイギリス王位よりもシンプソンとの結婚を選んだのである。エドワード8世の退位に伴って、推定王位継承者だったアルバートがイギリス国王に即位した。しかしながらアルバートにはまったくその気がなく、国王の座は望んでもいない押し付けられたものだった<ref>Judd, p. 140</ref>。即位が正式に決まった際には、[[ルイス・マウントバッテン]]に対して「これは酷いよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方なんだから。国事に関する書類なんかこれまで一度も見たことなんか無いんだよ。そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやったことの無い人間なんだよ」と愚痴をこぼしたという。兄が退位する前日には、母メアリーのもとを訪れており、アルバートはその日の日記に「ひどいことが起こってしまいましたと母に告げ、私は取り乱して子供のように泣き崩れた」と記している<ref>Wheeler-Bennett, p. 286</ref>
 
エドワード8世の退位に伴って、推定王位継承者だったアルバートがイギリス国王に即位した。しかしながらアルバートにはまったくその気がなく、国王の座は望んでもいない押し付けられたものだった<ref>Judd, p. 140</ref>。即位が正式に決まった際には、[[ルイス・マウントバッテン]]に対して「これは酷いよ。私は何の準備も、何の勉強もしてこなかった。子供の頃から国王になるように教育を受けていたのはデイヴィッド(エドワード8世)の方なんだから。国事に関する書類なんかこれまで一度も見たことなんか無いんだよ。そもそも、私は一介の海軍士官に過ぎないんだ。海軍将校としての仕事以外は、これまで何もやったことの無い人間なんだよ」と愚痴をこぼしたという。兄が退位する前日には、母メアリーのもとを訪れており、アルバートはその日の日記に「ひどいことが起こってしまいましたと母に告げ、私は取り乱して子供のように泣き崩れた」と記している<ref>Wheeler-Bennett, p. 286</ref>。
エドワードが退位宣言を出した当日に、[[アイルランド自由国]]政府は憲法からイギリス国王の直接統治に関する内容を削除する法案 ([[:en:Constitution (Amendment No. 27) Act 1936]]) を可決した。そして翌日には外交に関する法案 ([[:en:Executive Authority (External Relations) Act 1936]]) が議会を通過し、イギリス国王はアイルランドの外交問題に関する代表者に過ぎないという内容の条項を持った法案が成立した。これらの法案の成立は、アイルランド自由国に、イギリス連邦の一員ではあるものの、共和制の性格を本質的に持たせるという二面性を与えることとなった<ref>Townsend, p. 93</ref>。
 
エドワード8世が退位宣言を出した当日に、[[アイルランド自由国]]政府は憲法からイギリス国王の直接統治に関する内容を削除する法案 ([[:en:Constitution (Amendment No. 27) Act 1936]]) を可決した。そして翌日には外交に関する法案 ([[:en:Executive Authority (External Relations) Act 1936]]) が議会を通過し、イギリス国王はアイルランドの外交問題に関する代表者に過ぎないという内容の条項を持った法案が成立した。これらの法案の成立は、アイルランド自由国に、イギリス連邦の一員ではあるものの、共和制の性格を本質的に持たせるという二面性を与えることとなった<ref>Townsend, p. 93</ref>。
 
報道記者でもあった宮廷人[[ダーモット・モラー]]は、当時の宮廷内には、ヨーク公アルバートとその子女、弟グロスター公ヘンリーよりも、末弟ケント公ジョージこそがイギリス国王に相応しいという雰囲気があったと断言している。これは、当時の前国王ジョージ5世の王子たちの中で、ジョージだけに男子(後にケント公を継いだ[[エドワード (ケント公)|エドワード]])がいたことが影響していると考えられている<ref>Howarth, p. 63; Judd, p. 135</ref>。