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== 経歴 ==
[[湖南省]][[長沙市]]に生まれる。[[明|明王朝]]の開祖[[朱元璋]]19世の子孫<ref>[http://comments.people.com.cn/jiucuo/bbs_list.php?uid=47931&channel_id=47931&news_id=18564246&news_title=揭朱镕基传奇身世之谜:乱世孤儿 乃朱元璋后裔 (组图)【19】&news_url=/n/2012/0720/c1053-18564246.html 揭朱镕基传奇身世之谜:乱世孤儿 乃朱元璋后裔]</ref>で堂坡朱氏。父親は朱鎔基が生まれる前に他界し、母親も早くに病没した。そのために苦学して優秀な学業成績から奨学金を得て苦学し、[[1947年]]、[[清華大学]]電機製造学科に入学。在学中、学生会の主席を務める。中華人民共和国が建国された[[1949年]]10月に[[中国共産党]]へ入党する。
 
[[1951年]]、大学を卒業して[[テクノクラート]]として東北人民政府に入り、工業部生産計画室に配属される。その後、同室の副主任となる。翌[[1952年]]11月、ソ連方式の計画経済を主導する機関として国家計画委員会が新設され、[[中華人民共和国副主席|中央人民政府副主席]]兼東北人民政府主席の[[高崗]]が同委員会主席に就任した。高崗の北京入りにともない、翌月、朱鎔基も中央に呼び寄せられて、同委員会の動燃局に所属し、組長となった。[[1953年]]には同委員会総合局に転属し、組長となる。[[1954年]]、「[[高崗・饒漱石事件]]」が起こり、高崗が失脚したが、朱に累が及ぶことはなかった。[[1958年]]には国家計画委員会主任弁公室副処長となったが、[[毛沢東]]が発動した[[大躍進政策]]を批判したことで、右派の烙印を押されて失脚、国家計画委員会付属学校の教員に左遷された。大躍進政策の破綻を受け、[[劉少奇]]・[[鄧小平]]らが実権を握り、実務官僚を重用して経済再建に乗り出していくと、朱も[[1962年]]に「赦免」され、国家計画委員会国民経済総合局の工程師として復帰する。しかし、[[文化大革命]]において再び粛清され、[[1970年]]に下放、五七幹部学校で労働改造を受ける。
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==脚注==
{{Reflist}}
 
==関連項目==
*[[王岐山]]
 
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