「残留ロシア人 (南樺太)」の版間の差分

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TempuraDON (会話 | 投稿記録)
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やがて残留ロシア人は日本人社会に溶け込むようになった。子弟を日本人学校に通わせるなどしたため、日本人学校に通学する残留ロシア人は日本語が話せるようになった。また、日本人経営の企業や商店に勤務する者も現れた。
 
1917年に[[十月革命|ソビエト革命]]が起こり、ロシアで社会主義政権が樹立されると、[[白系ロシア人]]の中には日本統治下の南樺太に[[亡命]]して定住する者([[マルキャン・ボリシコ]]など)が出てくるようになった。1905年から南樺太に定住する残留ロシア人と1917年以降に亡命して南樺太に定住するようになった白系ロシア人は、多くの場合は日本人から同じロシア人と認識されていた。
しかし、[[1945年]]8月の[[ソ連対日参戦]]とともに[[赤軍]]が樺太に侵攻したことで、彼らの生活も大きな転機を迎えた。彼らの多くは(共産化により)これまでの財産を失い、中には政治犯として処分される者もいたが、一方で日本本土に移住・亡命する者もいた。やがて、ロシア本土から移住してきた新住民と同化し事実上消滅した。なお、日本本土に移住した南樺太出身者は、日本国籍を得たものであっても「土人戸口規則」(大正10年樺太庁35号)が適用され「樺太土人」として扱われてて戸籍法上は本土出身の日本人とは区別されたため、在日朝鮮・台湾人同様、参政権を停止された([[戸籍法#旧併合地出身者参政権との関係]])。ただし、[[サンフランシスコ平和条約]]で日本国籍を喪失した在日朝鮮・台湾人とは異なり、日本国籍を得ていた南樺太出身者は日本国籍を喪失することはなく、就籍という形で参政権を回復した。
 
しかし、[[1945年]]8月の[[ソ連対日参戦]]とともに[[赤軍]]が樺太に侵攻したことで、彼らの生活も大きな転機を迎えた。彼らの多くは(共産化により)これまでの財産を失い、中には政治犯として処分される者もいたが、一方で日本本土に移住・亡命する者もいた。やがて、ロシア本土から移住してきた新住民と同化し事実上消滅した。なお、日本本土に移住した南樺太出身者は、日本国籍を得たものであっても「土人戸口規則」(大正10年樺太庁35号)が適用され「樺太土人」として扱われてて戸籍法上は本土出身の日本人とは区別されたため、在日朝鮮・台湾人同様、参政権を停止された([[戸籍法#旧併合地出身者参政権との関係]])。ただし、[[サンフランシスコ平和条約]]で日本国籍を喪失した在日朝鮮・台湾人とは異なり、日本国籍を得ていた南樺太出身者は日本国籍を喪失することはなく、就籍という形で参政権を回復した。
 
== 出自 ==