「ダニシュメンド朝」の版間の差分

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ダニシュメンドはルーム・セルジューク朝を継いだ[[クルチ・アルスラーン1世]]と度々戦った。[[1097年]]、[[第1回十字軍]]の侵攻でルーム・セルジューク朝が[[ニカイア攻囲戦|ニカイアを失うと]]、ダニシュメンド朝はルームと連合して[[ドリュラエウムの戦い]]で十字軍と戦ったが敗れている。
 
[[1100年]]、ダニシュメンド・ガーズィーの息子アミール・ガーズィー・グムシュティギン(امیر غازی گوموش‌تگین Amīr Ghāzī Gūmūsh-tigīn/Emir Gazi Gümüshtigin)は、[[メリテネの戦い]]で[[十字軍国家]][[アンティオキア公国]]の[[ボエモン1世 (アンティオキア公)|ボエモン1世]]を破って捕らえ、[[1103年]]まで捕虜としている。ボエモン1世を救出しようとダニシュメンド朝に迫った「[[1101年の十字軍]]」に対しても、ルーム・セルジューク朝とダニシュメンド朝は連合して戦い、今度は撃破した。しかしダニシュメンド・ガーズィーの死後の[[1104年]]、クルチ・アルスラーンはダニシュメンド朝の弱体化に乗じて攻め込んできた。ダニシュメンド朝はアンティオキア公国と連合し、ルーム・セルジューク朝と東ローマ帝国の連合軍と戦っている。
 
[[1116年]]にはダニシュメンド朝はマスウード1世がルーム・セルジューク朝のスルタンとなることを助けている<ref>"Turkmen Ruling Dynasties in Asia Minor".</ref>。[[1130年]]、アミール・ガーズィー・グムシュティギンは、南に隣接する[[キリキア・アルメニア王国]]を攻めた。アンティオキア公国はキリキア救援のため介入したが、グムシュティギンはアンティオキア公ボエモン2世を戦死させた。