「ロシア四重奏曲」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Kkddkkdd (会話 | 投稿記録)
1行目:
{{出典の明記|date=2017年5月2日 (火) 08:52 (UTC)}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''ロシア四重奏曲 Op.33'''(全6曲)は、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]作曲した[[弦楽四重奏曲]]集である
 
ハイドンのこの6曲により、[[弦楽四重奏曲]]は古典的な完成を果たした。[[古典派音楽|古典派]]以降の多くの弦楽四重奏曲の源流がこの6曲にあるという点で、音楽史的にも重要な作品である。
6 ⟶ 7行目:
なお[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]はこの6曲の完成度の高さと意義とに感銘を受け、2年あまりをかけて同じく6曲の弦楽四重奏曲([[ハイドン・セット]])を作曲しハイドンに献呈した。
 
* 作曲:[[1781年]]
* 出版:[[1782年]]4月[[ウィーン]][[アルタリア (出版)|アルタリア社]]より
* 献呈:[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィッチ]]
* 編成:[[ヴァイオリン]]2、[[ヴィオラ]]1、[[チェロ]]1
 
== [[ニックネーム]]の由来 ==
これら6曲は、[[アルタリア社]]から出版された第2版に、「ロシア大公に献呈」と記されたことから、「ロシア四重奏曲」の呼び名で呼ばれている。このロシア大公とは、のち[[1796年]]に[[ロシア皇帝]]となった[[パーヴェル1世|パーヴェル・ペトロヴィッチ]]のことである。ハイドンはこの曲を作曲した[[1781年]]に、[[ウィーン]]を訪れたペトロヴィッチ大公夫妻に会っており、その際婦人に数回音楽を教えているほか、婦人の部屋ではハイドン主宰の音楽会が開かれている。その音楽会ではこの「ロシア四重奏曲」op.33のうちの1曲が演奏されたと言われている。
 
== 作曲の背景 ==
ハイドンは、この曲を書くのに先立って[[1772年]]に6曲からなる弦楽四重奏曲集「[[太陽四重奏曲]]」op.20を作曲していた。しかしその後、この「ロシア四重奏曲」を書くまで、10年近く弦楽四重奏曲を作曲していない。
 
23 ⟶ 24行目:
このようにして「ロシア四重奏曲」で弦楽四重奏曲の古典派的手法を確立させたハイドンは、独特のユーモアやウィットを持ちながら、自在な四つの楽器の扱いと熟練した和声手法で練り上げられた形式で、そのあとの弦楽四重奏曲の楽曲を量産していくことになる。
 
== ロシア四重奏曲 Op.33の6曲 ==
#[[弦楽四重奏曲第37番 (ハイドン)|弦楽四重奏曲第37番]] ロ短調 op.33-1 Hob.III:37(ロシア四重奏曲第1番)
#[[弦楽四重奏曲第38番 (ハイドン)|弦楽四重奏曲第38番]] 変ホ長調 op.33-2 Hob.III:38『冗談』(ロシア四重奏曲第2番)
33 ⟶ 34行目:
#[[弦楽四重奏曲第42番 (ハイドン)|弦楽四重奏曲第42番]] ニ長調 op.33-6 Hob.III:42(ロシア四重奏曲第6番)
 
== 関連項目 ==
* [[ハイドンの弦楽四重奏曲一覧]]
* [[エルデーディ四重奏曲]] op.76([[1796年]]-[[1797年]])
* [[ハイドン・セット]]([[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]作曲)
 
[[Category:ハイドンの弦楽四重奏曲|ろしあ]]