「リットン調査団」の版間の差分

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この総会報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現[[タイ王国|タイ]])、投票不参加1国([[チリ]])であり、国際連盟規約15条4項<ref>紛爭解決ニ至ラサルトキハ聯盟理事會ハ全會一致又ハ過半數ノ表決ニ基キ當該紛爭ノ事實ヲ述へ公正且適當ト認ムル勸告ヲ載セタル報告書ヲ作成シ之ヲ公表スヘシ</ref>および6項<ref>聯盟理事會ノ報告書カ【紛爭當事國ノ代表者ヲ除キ】他ノ聯盟理事會員全部ノ同意ヲ得タルモノナルトキハ聯盟國ハ該報告書ノ勸告ニ應スル紛爭當事國ニ對シ戰爭ニ訴ヘサルヘキコトヲ約ス(報告書が当事国を除く理事会全部の同意を得たときは連盟国はその勧告に応じた紛争当事国に対しては戦争に訴えない)</ref>についての条件が成立した。[[松岡洋右]]全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場し、日本政府は3月8日に脱退を決定(同27日連盟に通告)し、日本国内世論は拍手喝采をもって迎えた。42対1は当時日本で流行語になり[[語呂合わせ]]で「向こうは死に体でこっちは1番なんだ」等と一部で評された。
 
なお、シャム(タイ)の棄権は各国代表を驚かせたが、当時の駐シャム公使[[矢田部保吉]]が、同国外相に対する再三再四の働きかけによって、「暹羅国ハ東洋ノ一国ナレハ日支両国何レニモ味方シ得ス、又敵トモ為シ得ス仍テ同国代表ハ満州事変二関スル国際連盟ノ表決ニハ棄権スヘシ」との言質を引き出していたという経緯があった<ref>吉川利治「タイ国ピブーン政権と太平洋戦争」東南アジア研究 19(4), 363-387, 1982.3, 365[http://ci.nii.ac.jp/els/110000201872.pdf?id=ART0000573771&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1439626208&cp=]. 宮崎申郎「矢田部公使ノ対暹工作」外務省外交史料館 A-6-0-0-1_27_002 諸外国内政関係雑纂 暹羅国ノ部 第二巻, 1942.6.15, 5 (国立公文書館アジア歴資料センター B02031579300, Real No.A-0642_0391[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B02031580000?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2006092115241146544&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&])</ref>。当時の同国では、[[1932年]]の[[立憲革命 (タイ)|立憲革命]]によって、対日関係を重視した政権が成立していた上、同国自身膨張する華僑勢力との民族摩擦という国内問題を抱えており、中国の立場に同情できなかったという事情が指摘されている<ref>林玉美「アジア・太平洋戦争開戦に至る日タイ関係」吉備国際大学社会福祉学部研究紀要 (13), 43-54, 2008-03-31, 47[http://ci.nii.ac.jp/els/110006633593.pdf?id=ART0008646864&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1439618930&cp=]</ref>。
 
==その後==