「趙無恤」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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後に、晋の[[晋 (春秋)#政治・軍制|六卿]]の中で最大の勢力を誇っていた智氏の当主・[[智瑶]](智伯・荀瑶・智襄子)が、[[魏 (戦国)|魏]]氏の当主・[[魏駒]](魏桓子)と[[韓 (戦国)|韓]]氏の当主・[[韓虎]](韓康子)の勢力を率いて、無恤の本拠地晋陽に攻め込んで来た。([[晋陽の戦い]])
 
智瑶の水攻めで一時は落城寸前まで追い込まれるが、魏駒と韓虎に使者を派遣して「智瑶は強欲なのでわたし(智瑶に)滅ぼされた後は貴公の番であろう」と言っ述べて内応させることに成功し、大逆転で智瑶を敗死させ
 
紀元前453年の智氏の滅亡により、これ以降晋は事実上に[[趙 (戦国)|趙]]・[[魏 (戦国)|魏]]・[[韓 (戦国)|韓]]に三分された。これをもって、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の幕開けとなる。ちなみに智襄子を滅ぼした後に、智襄子の旧臣[[豫譲]]から2度も暗殺されそうになるが失敗に終わり、豫譲は無恤の前で自害した。この様子は『[[史記]]』の「[[刺客列伝]]」に記されている。