「オープン・ザ・ブレイブゲート王座」の版間の差分

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|2006年3月19日
|本川越ペペホール、[[谷嵜直樹|谷嵜なおき]]とドラゴン・キッドの3WAY戦
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!第4代
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|2010年2月27日
|[[KBSホール (日本)|京都KBSホール]]
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!第18代
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|2014年3月16日
|[[和歌山県]]立体育館、王座返上
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!第26代
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== 主な記録 ==
* 最多戴冠回数 : 6回 - [[吉野正人]](第3、7、10、12、19、23代)<ref>第10代の[[Dr.マッスル]]を含む。</ref>
* 最多連続防衛回数 : 11回 - [[ベンジャミン・サッタリー|PAC]](第20代)
* 最多通算防衛回数 : 16回 - 吉野正人
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== Blood WARRIORS認定オープン・ザ・ブレイブゲート王座 ==
第20代王者であった[[ベンジャミン・サッタリー|PAC]]が[[2011年]][[6月12日]]の[[神戸サンボーホール]]大会後に[[イギリス]]に帰国することを理由に[[谷嵜直樹|谷嵜なおき]]がPACから強奪して[[メタル・ウォリアー]]をコミッショナーとした王座。
 
谷嵜が強奪後に[[7月24日]]の[[KBSホール (日本)|KBSホール]]大会で[[リッチ・スワン]]が挑むも敗北。続いて[[Gamma]]が[[8月25日]]の[[後楽園ホール]]大会で挑戦するも事前に谷嵜から突き付けられた「王者(谷嵜)のみ2カウントで勝ちになる特別ルール」の影響で敗北。
 
その後、谷嵜は真の王者であるPACともGamma戦と同じく王者のみ2カウント勝利となる特別ルールで戦うと宣言して[[9月16日]]の後楽園ホール大会でタイトルマッチが組まれた。