「吉田ヒロ」の版間の差分

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=== 新喜劇入団 ===
コンビ解散後、芸名を「ヒロ」から「吉田ヒロ」に改名。[[1989年]][[吉本新喜劇]]に入団。[[ぼんちおさむ]]に弟子入りした(新喜劇入団後に師匠を持つのは同じ新喜劇の[[小米良啓太]](師匠:[[大平シロー]])の2人だけ。共にタイヘイ一門でもある)。ちなみに、ヒロは元々NSCに入る前におさむに弟子入り志願している。しかし、すでに住み込み弟子([[ジミー大西]])がいたため弟子にはなれなかったが、ヒロはずっとおさむを尊敬しており、おさむもヒロを弟子のようにかわいがっていた。ヒロの結婚式は法善寺横町でゲリラ的に行われたが、これをプロデュースしたのもおさむであり、現在は正式にヒロを弟子としている。
 
ニューリーダーの内場、辻本が東京での収録のため不在だったころに、残った[[石田靖]]と交代で新喜劇の主役を担うようになるが、石田はテレビの仕事が多かったため、その結果[[1997年]]秋から数年の間はほとんど毎週ヒロがNGKの主役を演じていた。<ref>3人と同時期にヒロにもニューリーダー就任の話が来ていたが、「大阪ほんわかテレビ」の仕事があるため見送られた</ref>
 
=== 大阪での人気から、東京進出と撤退 ===
吉本新喜劇入団後もダウンタウンファミリーとして、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]の番組に[[今田耕司]]、[[東野幸治]]、[[木村祐一]]、[[130R]]らと共にレギュラーで出演する事が多く、そのメンバーの中でも中高生の女子から圧倒的な人気を得ていた。観覧収録番組においては、1人1人が何かを発表する際、ヒロの順番になると黄色い声援が飛び交い、アイドルのような存在となっていた。ダウンタウンが東京での活動を増やして行く中で、特番時期の「[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]」に上記のダウンタウンファミリーを総出演させる形で今田らと共に東京に進出。一発ギャグ(詳しくは後述)を披露する枠を用意されるなどしたが、今田らが若手芸人としてグングンと評価を上げて行く反面、大阪で絶大な人気を誇ったヒロのギャグは東京では理解されず、いつしかダウンタウンファミリーの中から1人だけレギュラーから外されてしまう。降板の理由としてはコント中心の番組の中で自慢の一発ギャグを活かし辛かったこと。その事から東京のフジテレビのプロデューサーやスタッフに気に入られず、たびたび罵声を浴びせられ、コントの出演シーンを大幅にカットされた。またダウンタウンの意向で[[テレフォンショッキング]]に出る調整をした際「10年早い」と発せられ却下された<ref>森田展義アワー(100回記念ゲスト)</ref>。1人だけ東京からの撤退を余儀なくされ、その後は大阪に戻りダウンタウン関連で大阪収録の番組や24時間テレビに出演するが、[[吉本新喜劇]]を活動の拠点とした。
 
吉本新喜劇に戻ってからは今田達が抜けた穴を内場、辻本、石田らと埋めるようになる。1995年には他の3人と共にニューリーダー就任の話が来ていたが、「大阪ほんわかテレビ」の仕事があるため見送られた。『[[超!よしもと新喜劇]]』の放送期間中は内場、辻本が東京での収録のため不在、残った[[石田靖]]と交代で新喜劇の主役を担うようになるが、石田はテレビの仕事が多かったため、その結果[[1997年]]秋から数年の間はほとんど毎週ヒロがNGKの主役を演じていた。
 
== 座長就任から卒業(退任)まで ==
『[[超!よしもと新喜劇]]』の放送期間中はNGKでの主役だったこともあり、[[1999年]]に正式に座長に就任、数多くの一発ギャグ(ボケ)を封印し、ツッコミ担当に転じる。大阪的な人情を描いた保守的ストーリーを演じる辻本(辻本の項参照)、劇団出身らしく小劇団なストーリーを演じる内場、暴力的なツッコミをかます石田ら3座長とストーリーを決める点であきらかに違う所は、なにがしか常に新喜劇では前衛的な、新しい試みを行っていたことがあげられる。「新喜劇40周年記念・ゲラゲラハッピィ」(データハウス発行)で、本人もほぼ同じ意味のことを言っている。
 
;ヒロが作成に関わっていた新喜劇の特徴