「慈恩寺 (寒河江市)」の版間の差分

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[[文治]]元年([[1185年]])後白河法皇の[[院宣]]と[[源頼朝]]の[[下文]]により、瑞宝山の山号を賜った。この時、[[高野山]]の弘俊[[阿闍梨]]により[[真言宗]]がもたらされ、翌文治2年([[1186年]])法皇の院宣により[[熊野権現]]社殿が修造された。白山権現は鎮守から外れることになり、天台宗も中心的役割を失っていく。後白河法皇は生涯34度におよび[[熊野三山|熊野]]を詣でており、その信仰心がこの地方まで影響していたことを示している。弘俊は[[修験]]を導入し、[[葉山 (村山市)|葉山]]を奥の院として葉山修験の中心地となった。
[[Image:JIONJI Tmple Amidado.jpg|thumb|220px|阿弥陀堂]]
[[Image:JIONJI Temple Syakado.jpg|thumb|220px|釈迦堂]]
 
=== 鎌倉時代(中興と大江氏) ===
[[Image:JIONJI Tmple Amidado.jpg|thumb|220px|阿弥陀堂]]
[[Image:JIONJI Temple Syakado.jpg|thumb|220px|釈迦堂]]
[[文治]]5年([[1189年]])[[奥州藤原氏]]が滅び、寒河江荘の[[地頭]]に[[大江広元]]が[[補任]]されると、慈恩寺も次第に[[寒河江氏|大江氏(寒河江氏)]]の庇護を受けるようになる。広元の長男[[大江親広]]は[[建久]]3年([[1192年]])寒河江荘を譲り受けるが、[[承久]]3年([[1221年]])[[承久の乱]]で失脚し寒河江荘に隠棲する。ただし、親広の子の[[大江広時]]、広時の子の[[大江政広]]は[[鎌倉幕府]]の要職にあり鎌倉に定住していたため、政広の子の[[大江元顕]]が初めて寒河江に入部したと言われている。『永正本大江系図』によれば、広元の末子・尊俊が別当坊を継いだことが記録され、『最上院系図』によると親広の孫・成広が別当二十二代を相続して幸繁を称し、三十代幸海・三十五代幸道も大江氏から入った<ref>『寒河江市史 上巻』 p.307 </ref>。このことは端的に、慈恩寺と大江氏が密接な関係を結んでいたことを示している。[[安貞]]2年([[1228年]])勧進僧恵玄房経円が[[白山権現|白山神社]]御宝前に木造の[http://imagedb.narahaku.go.jp/archive_search/search/viewer.php?requestArtCd=0000004059 聖観音懸仏]を納める([[奈良国立博物館]]所蔵)。[[正応]]3年([[1290年]])良源阿闍梨により求聞持堂が築造され、虚空菩薩像を安置し聞持院と称した。ここでは虚空蔵求聞持法という密教の修行を行った。ここにはこれ以前薬師堂が建てられており、薬師三尊及び十二神将を安置していたという<ref>『みちのく慈恩寺の歴史』 p.63-64 </ref>。[[永仁]]4年([[1296年]])に火災で本堂及び本尊弥勒菩薩以下の諸仏が焼亡するが[[正安]]元年([[1299年]])再建が開始され8年後に完成している。