「小唄勝太郎」の版間の差分

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| Years_active = [[1931年]] - [[1974年]]
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[[ファイル:Hitachi-Kyourakukan8.jpg|thumb|230px|[[1935年]](昭和10年)、[[茨城県]]日立町(後の[[日立市]])の「[[共楽館]]」で行われた公演光景。<ref>『史料集共楽館 地域と共に歩んだ五十年』(NPO法人共楽館を考える集い、1999年)</ref>]]
 
'''小唄 勝太郎'''(こうた かつたろう、[[1904年]][[11月6日]] - [[1974年]][[6月21日]])は日本の'''[[女性]][[歌手]]'''。本名は'''眞野 かつ'''。旧姓は佐藤。
 
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一躍、人気歌手となった勝太郎は、『大島おけさ』『佐渡を想えば』と連続してヒットを出すが、決定打となったのは、[[盆踊り]]のシーズンに発売された『[[東京音頭]]』である。前年に葭町の先輩[[藤本二三吉]]が歌った『丸の内音頭』の替歌として発売されたこの曲は、民謡調を得意とした[[三島一声]]とのデュエットによってレコーディングされ、東京だけでなく、日本全国の盆踊りは『東京音頭』一色に染まったのであった。
 
人気絶頂の勝太郎は、葭町の芸者を廃業し、レコード歌手に専念することを決意。[[1934年]](昭和9年)、歌舞伎座で「小唄勝太郎」襲名の披露興行が華やかに開催された。小唄勝太郎を名乗ってから、春のシーズンに発売された『[[さくら音頭]]』は、曲を変えて各社競作となるほどの大ヒットとなったが、本家ビクターの勝太郎盤が最も売り上げを伸ばした。勝太郎の人気により、レコード業界に[[うぐいす芸者歌手|鶯歌手]]旋風が巻き起こり、同じビクターから[[市丸]]、[[日本コロムビア|コロムビア]]からは[[赤坂小梅]]、[[豆千代]]、[[ポリドール・レコード|ポリドール]]からは[[新橋喜代三]]、[[浅草〆香]]、[[タイヘイレコード|ニットー]]からは[[美ち奴]]、[[日本橋きみ栄]]と続々と芸者出身の歌手が人気を博したが、中でも同じ会社の[[市丸]]とは相当なライバル意識を持っていたようであった。市丸は後に「勝っちゃんが歌い終わるとするようなにっこり笑う顔がどうにも愛嬌があって、あたしにはとてもできなかったの」と語っているが、当時二人は出番や着物、出演料に至るまで相当張り合っていた。新聞は勝太郎主体の記事の場合は「勝市時代」、市丸主体の記事の場合は「市勝時代」と書かねばならぬほどであった。
 
[[1936年]](昭和11年)、JO映画『勝太郎子守唄』に主演。『娘船頭さん』『あんこ椿』と順調にヒットを続ける一方で、1937年(昭和12年)、作詞家の[[西條八十]]や[[松竹歌劇団|SKD]]の[[江戸川蘭子]]らとともに中国大陸に戦地慰問に赴いていたのをきっかけに、その後も何度と無く、前線の将兵を慰問している。[[1938年]](昭和13年)、戦地で病に倒れた際に、軍医・眞野遼一と知り合い、二人は戦後になってからの[[1949年]](昭和24年)に結婚した。
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戦時中も勝太郎の活躍は続き、[[1942年]](昭和17年)に発売された『明日はお立ちか』は、放送局にリクエストの電話が掛かってくるほどの大反響を呼び、久々の大ヒットとなった。軍需工場の慰問などに忙しい日々を送っていた勝太郎であったが、内地で終戦を迎える。[[1946年]](昭和21年)、コロムビアに移籍。[[古賀政男|古賀メロディー]]『伊豆の七島』、親交の深かった歌舞伎俳優・[[市村羽左衛門]]を偲ぶ『橘屋』などをレコーディングするが、[[1948年]](昭和23年)には[[テイチクエンタテインメント|テイチク]]に移籍した。映画主題歌『大島情話』がヒット。[[1950年]](昭和25年)には親善使節として日本の芸能人としては戦後初めて、[[渡辺はま子]]、三味線けい子らと渡米し、[[ハワイ]]、[[ロサンゼルス]]、[[サンフランシスコ]]と、現地の[[日系人]]に『東京音頭』の歌手として大人気を博す。さらに、[[東海林太郎]]らとともに[[ブラジル]]へも赴き、こちらでも日系人の熱烈な歓迎を受けている。
 
[[1961年]](昭和36年)、設立間もない[[EMIミュージック・ジャパン|東芝]]に移籍。主に民謡を中心にレコーディング活動を続けた。昭和40年代の[[懐メロ]]ブームには欠かせない存在となり、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]の「[[なつかしの歌声]]」には常連のメンバーで、死の直前まで出演している。たゆまぬ精進が認められ、[[1971年]](昭和46年)、[[紫綬褒章]]受章。さらに[[1974年]](昭和49年)には、[[勲等|勲四等]][[宝冠章]]を受章。古巣のビクターで『島の娘』や『東京音頭』など往年のヒット曲を再レコーディングするなど、積極的に活動していたが、[[肺癌]]のため同年6月、東京都[[府中市 (東京都)|府中市]]の自宅で69年の生涯を閉じた。
 
==民謡・新民謡の普及の功績==