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'''灰田 勝彦'''(はいだ かつひこ、[[1911年]](明治44年)[[8月20日]] - [[1982年]](昭和57年)[[10月26日]])は、[[日本]]の[[歌手]]、[[ウクレレ]]奏者。本名(幼名):'''灰田 稔勝'''(はいだ としかつ)。[[ハワイアン]]や[[ヨーデル]]、[[流行歌]]で[[第二次世界大戦]]前後に一世を風靡し、また、[[映画俳優]]としても華々しく活躍した。[[作曲家]]で[[スチールギター]]奏者の[[灰田晴彦]]は兄にあたる(のちに有紀彦に改名)。
== 生涯 ==
=== 幼少期 ===
灰田稔勝(のちの勝彦)は
1922年(大正11年)、父の納骨のために母、2つ年上の兄・可勝(のちの晴彦)らと共に帰国し、父親の故郷である広島市内に父の墓を建立した。
=== 学生時代 ===
灰田兄弟は、父親の遺志を継ぐべく
大学では野球に熱中する一方で、在学中の[[1931年]](昭和6年)に
[[1933年]]、この頃から可勝は'''晴彦'''を、稔勝は'''勝彦'''を名乗るようになった。日本に初めてスチールギターの音色を伝えたこのバンドは
=== 歌手デビュー ===
[[1936年]](昭和11年)に立教大学を卒業して、晴彦が所属する[[日本ビクター]]と正式に専属契約を結び、「ハワイのセレナーデ」でデビューした。[[1937年]]、ハワイ音楽にコミカルな詞をつけた「真赤な封筒」が初ヒットする。この頃より日中戦争の影響でレコード業界も戦時色が強くなったため、ハワイアンのみならず流行歌のレコーディングも行うようになる。
また
[[1940年]]、当時の人気[[アイドル]]の[[高峰秀子]]と共演した[[千葉泰樹]]監督の[[南旺映画]]『秀子の応援団長』では、劇中で歌った挿入歌「[[燦めく星座]]」が高峰の歌った主題歌「青春グラウンド」を抜いて40万枚の大ヒットとなり、それまで人気があったもののマイナーな存在だった勝彦が全国的な人気スターになるきっかけとなった。
続いて出演した東宝映画『[[燃ゆる大空]]』では
レコードにおいては、「燦めく星座」の爆発的なヒットに続いて
人気の上昇につれて、甘く切ない歌声は
=== 戦後の活躍 ===
[[1945年]]、傷病兵として復員した灰田は、芸名であった勝彦の名を本名にした。灰田の人気はさらに上昇し、リバイバルヒット「新雪」「燦めく星座」をはじめ、「紫のタンゴ」「東京の屋根の下」とレコードの大ヒットが続く。昭和21年、高峰と[[日本劇場|日劇]]で公演した『ハワイの花』は、連日超満員の観客動員を果たし、まさに絶頂期を迎えるのであった。戦争のため、関係を引き裂かれていた地元ハワイのフローレンス君子と1948年に結婚した。
スクリーンでは
昭和20年代後半に入っても
[[民間放送|民放ラジオ]]が設立されると、放送における[[コマーシャルソング]]が盛んに作られたが、その第一号である[[コニカ|小西六フィルム]](現・[[コニカミノルタ]])の「僕はアマチュアカメラマン」を歌ったのも彼であった<ref group="注釈" name=CM_song>[[塩野義製薬]]の「ペンギンの歌」もしくは[[精工舎]]([[服部時計店]]:現・[[セイコーホールディングス]])の時報メロディを第一号とする説もある。詳細は[[コマーシャルソング]]を参照。</ref>。初期の[[NHK紅白歌合戦]]の常連大物歌手の一人でもあり、計6回出場している(詳細は下記参照)。第3回([[1952年]])と第7回([[1956年]])では白組のトリを務めた。
[[小林亜星]]
=== キャリア後年 ===
昭和30年代に入ると徐々に人気は衰えてくるが、[[ラジオ]]・[[テレビ]]に活躍は続き、作曲なども手掛けるようになった。昭和40年代の[[なつメロ]]ブームでは、欠かせない存在として活躍した。昭和53年([[1978年]])1月15日放送の『[[第173回 NHKビッグショー|ビッグショー 灰田勝彦・青年66才]]』(NHK)はFMラジオでの再放送や番組のLP発売がされ、人気の健在振りを示した。
芸能生活45周年を迎えた頃、灰田は歌手の[[淡谷のり子]]に招かれ、
灰田の葬儀には芸能界に留まらず、各界の著名人が顔を連ねた。
[[11月3日]]に予定されていた灰田の母校・立教大学に「鈴懸の径」の歌碑の除幕式への出席を心待ちにしていた矢先で、当日の除幕式には灰田に代わり、母校の先輩で灰田とは約半世紀に及ぶ親交があった歌手[[ディック・ミネ]]が音楽番組の収録を中途で抜けて駆けつけ、晴彦や君子未亡人らとともに式に出席。号泣しながら「鈴懸の径」を歌い灰田のその死を悼んだ。
== 人物 ==
性格は喧嘩っ早く、人情家で義理堅かった為、「ハワイ生まれの江戸っ子」と呼ばれていた。なお命名したのは
灰田は芸能界随一の野球好きで知られ、バックバンド等のメンバーで野球チームを結成、ピッチャーとして還暦過ぎまでマウンドに立ち続け、「歌の合間に野球をするのか、野球の合間に歌を歌っているのか」とまで言われた。また、灰田の立教大学の後輩でもある[[長嶋茂雄]]やホームラン王の[[王貞治]]など、多くのプロ野球のスター選手とも親交があった。1977年(昭和52年)には
また灰田は麻雀好きでも有名で知られ、1972年(昭和47年)には「マージャン唱歌」「恋の東南西北」を自ら作曲し、吹き込んでいる。
灰田はハワイ生まれということで、戦時中は軍部からはかなり睨まれた為に軍人嫌いだったが、日本に対する愛国心は人一倍強く、日本の国旗・国歌には格別の思いがあった。また日本食が好きで、お茶漬け・梅干・新香が大好物だった。
キャリア後年に愛用していたウクレレ、マーチン#1Mは親交の深かった[[高峰秀子]]から贈られたものだったが、これは灰田が以前に愛用していたウクレレを高峰が「弾くのに事欠いて、お尻の下にひいて壊してしまった」<ref>NHKビッグショー「灰田勝彦 青年66才」(昭和53年1月15日放送)</ref>ため、そのことを気にした高峰がハワイに行った際に買って帰ってきたものである。昭和53年1月15日放送のNHKの番組「ビッグショー」内では、このウクレレ一本の伴奏に乗せて高峰と思い出の曲を唄うシーンがある。<ref>NHKビッグショー「灰田勝彦 青年66才」(昭和53年1月15日放送)</ref>
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