「梅原猛」の版間の差分

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1948年、同大を卒業。
 
大学院では[[山内得立]]、[[田中美知太郎]]に師事、[[マルティン・ハイデッガー]]哲学に惹かれつつも[[ギリシア哲学]]を専攻、しかし二度にわたって田中と対立した。最初の論文「闇のパトス」(1951年)は、哲学論文の体裁をとっておらず甚だ不評だったが、のちに著作集第一巻の表題となる。20代後半、強い虚無感に襲われて、[[賭博]]にのめりこむような破滅的な日々を送り、1951年、養母・俊の勧めで[[ピアニスト]]の夫人と結婚、同年、長女が生まれた時、[[ヘラクレイトス]]についての論文を書いており、「日の満ちる里」という意味で[[梅原ひまり|ひまり]]と名づける。ひまりはのち[[ヴァイオリニスト]]となった。そしてハイデッガーの[[ニヒリズム|虚無思想]]を乗り越えるべく「笑い」の研究に入り、いくつかの論文を発表したが、これは完成しなかった。30代後半から日本の古典美学への関心を強め、「[[壬生忠岑]]『和歌体十種』について」(1963年)という論文を書く。
 
「笑い」の研究を始めたことについて梅原は、[[フリードリヒ・ニーチェ]]や[[マルティン・ハイデッガー]]の[[実存主義]]哲学から出発したが、現実の生活に苦しくなると実存を頼ることはできなくなり、実存の論理を超えるために自分の心の暗さを分析して「闇のパトス」を書き、[[ニヒリズム]]を超えて人生を肯定するために「笑い」の哲学を目指したのだと言う。[[寄席]]に通い、[[渋谷天外]]、[[藤山寛美]]、[[大村崑]]などを研究の対象として論文を書いた<ref>[[東浩紀]]、梅原猛、「草木の生起する国――京都」、『日本2.0 思想地図β vol.3』、ゲンロン、2012年、313項。</ref>。
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