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'''グランド・ファンク・レイルロード'''('''Grand Funk Railroad, GFR''')<ref>『[[不死鳥]]([[Phoenix]])』から『[[ハード・ロック野郎 (世界の女は御用心)]]([[All the Girls in the World Beware!!!]])』までは バンド名を'''グランド・ファンク'''('''Grand Funk''')としていた</ref>は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ハードロック]]・[[バンド (音楽)|バンド]]。メンバーの中心は、マーク・ファーナー、メル・サッチャー<ref>http://www.grandfunkrailroad.com/bios/Mel_bio.html</ref>、ドン・ブリューワーである。メル・サッチャーのベース・プレイは、他のベーシストにも影響を与えた。1960年代末から70年代半ばにかけて、アルバム、ヒット・シングルを連発し、人気ハード・ロック・バンドとなった。二度の解散と再結成を経て、2012年現在も活動中である。
 
== 概要:歴史 ==
「テリー・ナイト・アンド・ザ・パック(Terry Knight and the Pack)」というバンドで活動していたドン・ブリューワー (''[[:en:Don Brewer|Don Brewer]]'', ds)とマーク・ファーナー (''[[:en:Mark Farner|Mark Farner]]'', vo & g)、が、テリー・ナイト(Terry Knight)がバンドを去ったのを機に、メル・サッチャー (''[[:en:Mel Schacher|Mel Schacher]]'', b) を誘い新バンドを結成。バンド名はアメリカの鉄道会社「''[[Grand Trunk Western Railroad]]'' 」をもじって名付けられた。1968年頃より勃興していた[[ニューロック]]、又は[[ヘヴィロック]](現在の[[ハードロック]])のスタイルをいち早く取り入れ、1969年にかつての同僚であるナイトをプロデューサーに迎えたアルバム『'''[[グランド・ファンク・レイルロード登場]]''' (''[[:en:On Time|On Time]]'') 』でデビューする。[[レッド・ツェッペリン]]のアメリカ公演の前座をやった際に、その歌と演奏力で聴衆を熱狂させ、ツェッペリンを食ってしまったことにより、ロックファンの間で知名度が高まった。アルバムからシングルカットされた「ハートブレイカー」はハードロックの古典となっており、[[ザ・タイガース]]がコンサートのレパートリーとして取り上げた。また、後にフォークシンガーとしてデビューする[[井上陽水]]がこの曲のコード進行を模倣して「傘がない」を書いたように、日本でも人気があった。[[1971年]]の来日公演は激しい雷雨の中で行なわれた。ロック伝説のひとつに数えられる[[後楽園球場]]の演奏は、ロック伝説として今も語り草になっている。また、アニマルズの曲をカバーした「孤独の叫び」もファンキーな人気曲となった
 
1972年の『'''[[不死鳥 (アルバム)|不死鳥]]'''(''[[:en:Phoenix (Grand Funk Railroad album)|Phoenix]]'')]』からはナイトと決別し、クレイグ・フロスト (''[[:en:Craig Frost|Craig Frost]]'', kbd) を迎えて音楽性をポップな方向に広げ、バンド名をグランド・ファンク(Grand Funk)に変更した<ref>この頃バンドはテリー・ナイトに対してバンド名と印税に関する訴訟を起こした。バンド名使用は認められたが印税についての請求は認められなかった</ref>。同アルバムからは「ロックンロール・ソウル」がシングル・カットされた。1973年、[[トッド・ラングレン]]にプロデュースを委ねたアルバム『''' [[アメリカン・バンド]]''' (''[[:en:We're an American Band|We're an American Band]]'') 』を発表。同名シングル曲が全米1位を獲得する大ヒットを記録、このアルバム・タイトルはそのまま彼らの代名詞となり、[[ボン・ジョヴィ]]など後に登場するアメリカのロックバンドにライブなどで何度もカバーされている。
 
続くアルバム『'''[[輝くグランド・ファンク]]''' (''[[:en:Shinin' On|Shinin' On]]'') 』では、1962年に全米1位を獲得したジェリー・ゴーフィン & キャロル・キング作によるリトル・エヴァ (''[[Little Eva]]'') の大ヒット曲「[[ロコ・モーション|ロコモーション (The Loco-Motion)]]」をハードロック風にアレンジしたカバーがシングルカットされ、こちらも全米1位を獲得、グランド・ファンク最大のヒットシングルとなった。また、ロコモーションのほかに「シャイニン・オン」もシングルとして発表された。
 
1975年にはドリフターズの原曲をブギ・ウギ調にアレンジした「オー・ワンダフル」と「バッド・タイム」の2曲のヒットを放った。1976年の『'''[[驚異の暴走列車]]'''(''[[:en:Born to Die|Born to Die]]'')』を発表し''[[:en:Capitol Records|Capitol]]''との契約は満了した。同年、[[:en:MCA Records|MCA]]から[[フランク・ザッパ]]プロデュースの『[[熱い激突]](''[[:en:Good Singin', Good Playin'|Good Singin', Good Playin']]'')』を発表するがこの1枚で解散した。
 
解散後、ファーナーはソロで''Mark Farner''(1977年)、''No Frills''(1978年)の2枚のアルバムを発表した。ブリューワー、サッチャー、フロストの3人はFlintを結成し''Flint''(1977年)を発表した。1980年、ファーナーとブリューワーの2人によってGFRは再結成された。『'''[[グランド・ファンク復活]]'''(''[[:en:Grand Funk Lives|Grand Funk Lives]]'')』と『'''[[ホワッツ・ファンク?]]'''(''[[:en:What's Funk ?|What's Funk ?]]'')』と2枚のアルバムを発表するがヒットを出すことはなく1983年に二度目の解散をした。