「久慈次郎」の版間の差分

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同年、全日本チームを核として[[プロ野球|職業(プロ)野球]]チーム:[[読売ジャイアンツ|大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)]]結成するにあたり、選手・主将としての参加を要請された<ref>給料面では、ほかの選手の月給が100円だったのに対し、500円だった。</ref> が、参加を辞退(久慈の辞退により、正式な初代主将には[[二出川延明]]が就任した。ただし、記録上では主将として久慈の名前が残っている)。アマチュア野球の発展に貢献しようとした。これには理由があり、同年3月に函館を襲った大火、[[函館大火]]により市が壊滅的なダメージを受けており、函館を離れようという踏ん切りがつかなかったためである。函館太洋倶楽部はこの年の[[都市対抗野球大会]]([[第8回全日本都市対抗野球大会|第8回大会]])の出場権を得ていたが、これを辞退した。この年、函館市議会に欠員が生じたため、日米野球の函館開催に尽力し、函館復興に心血を注いだ久慈を政治の場に、との声が上がる。本人は「議員なんて似つかわしくない」と発言しており、積極的な選挙活動は一切行わなかったが、トップ当選で函館市議となった。函館市議会員としての久慈の功績として、野球場やテニスコート、スキージャンプ台を兼ね揃えた函館市民運動場の設計がある(ただし、完成したのは久慈の死後であった。[[1954年]]に廃止され、現在は函館市立潮見中学校の敷地となっている)。
 
[[File:Tomb of Jiro Kuji.jpg|thumb|久慈次郎の墓]]
[[1939年]][[8月19日]]、選手兼任監督として[[札幌市円山球場]]での札幌倶楽部<ref>現在札幌市に本拠地を置いて活動している札幌倶楽部とは別チーム。現在活動しているチームは1985年に発足している。当時の札幌倶楽部は函館太洋倶楽部の隆盛と市の繁栄を見た当時の札幌市長が、当時函館市議も務めていた久慈に依頼し、久慈の後輩である広瀬誠一を主将に据えて創設されたチームである。</ref> との試合に臨み、久慈は5回の守備からファーストに着いていた。1-2とリードされて迎えた7回、四球で一塁に歩く際、ホームベース上で次の打者に指示を与えようと振り向いた瞬間、走者が飛び出した二塁に向けて投げられた相手捕手の牽制球が右のこめかみを直撃、ホームベース上に倒れ込みそのまま動かず、そのまま市立札幌病院に運ばれたが2日後、頭蓋骨破損による脳出血でついに帰らぬ人となった。久慈の棺を乗せた列車は札幌から函館に向かったが、停車駅ごとに熱烈な野球ファンが駅に詰めかけて、久慈の死を惜しんだといわれている。久慈の墓は[[函館市]]の小高い丘の上称名寺てられ、その形はボールをかたどったものとなっている。
 
== 死後 ==
[[File:Statue of Jiro Kuji.jpg|thumb|函館市オーシャンスタジアムにある「球聖久慈次郎の像」]]
久慈の闘志あふれるプレーを讃え、[[都市対抗野球大会]]では第18回大会([[1947年]](昭和22年))から、敢闘賞「'''[[久慈賞]]'''(くじしょう)」を設けた<ref>{{cite web|url=http://www.jaba.or.jp/toshitaikou/about/|title=都市対抗野球について|publisher=日本野球連盟|accessdate=2016-09-22}}</ref>。