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曹操は[[司空]]に任命されると、世間に模範を示すため、毎年の納税の時に本籍の県令に自分の資産を調べさせる事にした。譙県の県令が、曹操の資産が曹洪の資産と同等であるという報告をすると、曹操は「わしの財産が子廉の財産と同じ筈はない」と言ったという(『魏略』)。
 
建安5年([[200年]])、[[官渡の戦い]]では兵糧などの後方補給などで曹操を常に補佐した。[[徐晃]]と共に㶏<ref>本来の文字は「&#27701;」+「&#38544;」</ref>彊の賊の祝臂を攻撃しこれを破った(「徐晃伝」)。曹操が烏巣を攻撃した時は官渡の留守を預かり、[[袁紹]]軍の[[張コウ|張郃]]・[[高覧]]らの攻撃を防ぎ切った。張郃らが降伏を申し入れてくるとその意図を疑ったが、[[荀攸]]の助言によりこれを受け入れた(「荀攸伝」)。
 
曹操が烏巣を攻撃した時にその留守を懸命に守り、[[袁紹]]軍の[[張コウ|張郃]]・[[高覧]]らの攻撃を防御した。張郃らが降伏を申し入れてくるとその意図を疑ったが、[[荀攸]]の助言によりこれを受け入れた(「荀攸伝」)。
 
曹操が[[荊州]]の[[劉表]]を討つため[[西平県|西平]]に進むと、曹洪は別軍を率い舞陽・陰葉・堵陽・博望の各地で劉表軍を破った<ref>「武帝紀」によると、[[203年]]8月に曹操が西平に侵攻している。</ref>。この功により厲鋒将軍に昇進し、国明亭侯に封じられた。続いて都護将軍に任命された。
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曹叡の時代、乳母の当が[[洛陽]]において法に違反し、[[司馬芝]]に処刑されそうになった時、卞[[太皇太后]]がこれを救おうとしたが、司馬芝は処罰を覚悟で法を執行し、当を処刑してしまった(「司馬芝伝」)。
 
[[太和 (魏)|太和]]6年(232([[232]])死去。享年は不明である。'''恭侯'''と諡され、子の曹馥が後を継いだ。また子の曹震が、曹操の時代に列侯に封じられている。
 
[[正始 (魏)|正始]]4年([[243年]])秋7月、[[曹芳]](斉王)は詔勅を下し、曹操の廟庭に功臣20人を祭った。その中には曹洪も含まれている(「三少帝紀」)。
 
==三国志演義==