「豊橋市」の版間の差分

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その後、[[三河牧野氏]]と、[[二連木城]]等を有する[[戸田氏]]の間で抗争が起きたが、やがて、西三河をまとめた[[岡崎城]]の[[松平清康]]が東三河に侵攻、吉田城に篭る[[牧野信成 (今橋城主)|牧野信成]]、宇利城に篭る[[熊谷氏#三河熊谷氏|熊谷氏]]が防戦したが、戸田氏他の東三河の勢力も清康に降参し、ここに初めて、松平家による三河国統一が実現される。
 
しかしながら、[[森山崩れ]]によって松平清康が横死したため、三河国は大混乱に陥り、東から今川義元、西から織田信秀が侵攻し、三河国は近隣国彼ら植民地属領争奪の場と化す領国の蚕食を受けた松平氏は衰退し、今川氏の傘下となる。松平氏が撤退した後の吉田城は、城番の[[牧野成敏]]が城主となったが、その後これを略取した[[戸田宣成]]が、三河牧野氏の要請を受けた[[今川氏]]により討たれ、今川氏の直接支配となった。
 
[[ファイル:YoshidaJo Toyokawa.JPG|thumb|復元された[[吉田城 (三河国) |吉田城]]の鉄櫓]]
[[1560年]]([[永禄]]3年)[[桶狭間の戦い]]で[[今川義元]]が[[織田信長]]に討たれると、徳川家康は[[岡崎城]]に入城し、[[今川氏真]]を見限って独立を宣言。1565年(永禄8年)3月に吉田城が開城し、所属の今川軍と主将[[小原鎮実]]は遠江国に撤退した。家康は、重臣の[[酒井忠次]]を吉田城に入城させ、東三河の旗頭となした。そして、翌1566年(永禄9年)5月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの土豪なども家康の降伏の勧めに応じて、三河国は家康によりほぼ統一された。
 
[[安土桃山時代]]、[[1590年]]([[天正]]18年)に、関東移封で徳川家康が駿府から江戸に遷ると、[[池田輝政]]が東三河4郡を統べる吉田城主(15万2千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への[[吉田大橋]](現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。