「シーン制」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2008年2月}}
'''シーン制'''(シーンせい)とは、[[テーブルトークRPG]](TRPG)のシステム概念の一つ。シナリオを演劇や映画の脚本のように「シーン(場面)」単位で進行させるためのゲームシステムのことである。
 
[[ゲームマスター]]による物語の表現が容易になるため、ストーリー描写を重視するタイプのTRPGで多用されている。
「シーン制」と言う言葉はユーザー間で使われる俗語の体裁が強く、製作側がゲーム製品のジャンルとして「シーン制」という用語を広告的に使うことは少ない。この用語は1998年の[[トーキョーN◎VA|トーキョーN◎VA The Revolution]]の発売以降、その特徴的なシステム概念を説明するために雑誌での紹介記事や[[サプリメント (TRPG)|サプリメント]]のコラム記事などで使われ始めるようになり、一版のTRPGゲーマーたちもインターネットを中心に「シーン制」という用語が使われるようになっていった。
 
==概要==
'''シーン'''とは、映画におけるひとつの場面、小説におけるひとつの節のことである
「シーン制」と言う言葉はユーザー間で使われる俗語の体裁が強く、製作側がゲーム製品のジャンルとして「シーン制」という用語を広告的に使うことは少ない。この用語は1998年の[[トーキョーN◎VA|トーキョーN◎VA The Revolution]]の発売以降、その特徴的なシステム概念を説明するために雑誌での紹介記事や[[サプリメント (TRPG)|サプリメント]]のコラム記事などで使われ始めるようになり、一版のTRPGゲーマーたちもインターネットを中心に「シーン制」という用語が使われるようになっていった。
<ref>「これは、映画の「場面」のことだと思えばいい。皆さんも映画で、「警察署内で刑事たちが相談しているシーン」だとか、「兵士が敵と銃撃戦をしているシーン」だとかを見たことがあるだろう」
[[三輪清宗]]/[[小太刀右京]]『異界戦記カオスフレア Second Chapter』[[新紀元社]]、2008年、181頁「メインプレイ」より引用</ref>
<ref>「シーンは、フェイズよりも細かい区切りである。ひとつのフェイズはいくつかのシーンで構成されている。小説にたとえるなら、各節に相当する」
[[鈴吹太郎]]『トーキョーNOVA The Revolution』[[アスペクト]]、1998年、162頁「ポストアクト」より引用</ref>。
 
例えば、プレイヤーキャラクターが街から[[ダンジョン]]に移動する場合、シーン制のTRPGでは「街」というシーンと「ダンジョン」というシーンだけで描写され、それまでの道程の描写は距離にかかわらずカットされる。もしもそれまでの旅の道程でイベントを起こす必要があるならば、そのイベントが発生した場所のシーンが新たに追加される。しかし、シナリオ上必要のない旅の風景などは基本的に描写されない。
<ref>「何よりもシーンという概念において重要なのは、シーンというものは時間や概念、場所や距離などといった物理的制約には縛られないということだ」
[[三輪清宗]]/[[小太刀右京]]『異界戦記カオスフレア Second Chapter』[[新紀元社]]、2008年、181頁「メインプレイ」より引用</ref>。
もしもそれまでの旅の道程でイベントを起こす必要があるならば、そのイベントが発生した場所のシーンが新たに追加される。
しかし、シナリオ上必要のない旅の風景などは基本的に描写されない。
 
シーン制のゲームではこのように、ゲームシナリオ上で強い意味を持つ場面(シーン)のみを積み重ねていくことでシナリオが進行していく。
そして、ほとんどのシーン制のゲームではプレイヤーキャラクターの能力管理に、ゲーム内時間とは別にシーン単位の時間が組み込まれている。
例えば、「シーンが切り替わるとヒットポイントが回復したりする」「この魔法は1シーンの間持続する」などである。
これがシーン制でないゲームの場合は「8時間の睡眠でヒットポイントが回復する」「この魔法は10分に間持続する」などと定義されることが多い。
 
シーン制を用いていないテーブルトークRPG([[アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ]]、[[ソードワールド]]など)のプレイ感覚が、
コンピュータゲームに例えれば[[ドラゴンクエストシリーズ]]のようにプレイヤーキャラクターを実際にコントローラでキャラクターを歩かせて目的地まで移動させているようなものなのに対して、
シーン制のテーブルトークRPGのプレイ感覚は、選択肢型[[アドベンチャーゲーム]]のように移動したい場所を選択すれば瞬時にそこにたどり着くような感覚に近い。
 
==シーン制TRPGで良く見られるゲームルールの特徴==
シーン制と呼ばれるTRPGにはいくつかのルール的な特徴を持つ。本節ではその代表的なものを挙げる
 
「○○というルールがあればシーン制」と言うような決まりはない。
 
===移動の省略===
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シーン制を採用していないTRPGの多くは、キャラクターが様々な場所を移動することによって起こりうるリスクを表現するために何らかのルールを黎明期から実装してきた。現実世界のことを考えると長距離の移動には短距離の移動よりもリスクがあって当然なのである。キャラクターの移動のリスクの表現のために良く使われていたのが、キャラクターごとに移動速度を設定し、移動した距離から「移動時間」を算出して、その時間が長ければ長いほど危険に出会う確率が増すという考え方である。「野外を徒歩で移動している場合、移動時間が8時間経つごとに六面体サイコロを1個振り、3以下の出目が出れば怪物と遭遇する」などといった具合である([[エンカウント]]の項目も参考)。他にも「キャラクターは一日にパン一枚と水一杯を摂取しない限り、能力値が減少する」などといった形で移動時に食料に関するリスクを持たせるルールも多い。これは、移動距離が長ければ長いほど経済的コストがかかることを表している。また、キャラクターが持てる所持品の数量に限界が設けられているゲームの場合は大量の食料を持ち歩くことはできず、何ヶ月にもわたる旅を行う場合は食料や水の補給できる場所を定期的に立ち寄る必要があるという旅程計画の難しさを移動のリスクとして表現することもできる。
 
しかしシーン制のTRPGではこの移動のリスクを極端に簡略化して表現している。シーン制のTRPGでは移動のリスクは「キャラクターが到着したい場所を描写したシーンに登場できるかどうか」だけで表現される
<ref>「何よりもシーンという概念において重要なのは、シーンというものは時間や概念、場所や距離などといった物理的制約には縛られないということだ」
[[三輪清宗]]/[[小太刀右京]]『異界戦記カオスフレア Second Chapter』[[新紀元社]]、2008年、181頁「メインプレイ」より引用</ref>


例えば、「六面体サイコロを振って4以上が出れば、あなたは費用や時間を工面して無事にアメリカにたどり着けた」などという形で移動を表現するのである。移動中のリスクを一つ一つ描写してそれを一つ一つプレイヤーキャラクターたちに解決させるというようなことは行われず、ただ到着場所の「シーン」への登場が成功したか失敗したかだけを決定するのである。シーンの登場に成功した場合は「様々な危険があったが、それを無事乗り越えてたどり着いた」として解釈され、シーンの登場に失敗した場合は、いろいろなことがあって行きたい場所にたどり着けなかったと解釈される。シーンへの登場の成否を決定する方法はゲームシステムにより様々で、キャラクターの持つ何らかの能力値を使った[[行為判定]]により登場の成否を決定するもの([[アルシャード]]、[[トーキョーN◎VA]]など)、キャラクターが所持している何らかのポイントを消費することでシーンに登場可能となるもの([[異能使い]]など)、その逆にキャラクターにとってリスクとなるポイントを受け取ることでシーンに登場可能となるもの([[ダブルクロス]]など)などがある。また、シーンへ登場できるかの成否の決定は完全にゲームマスターの判断のみにゆだねられるものもある([[アリアンロッドRPG]]など)。行為判定により登場の成否を決定できるものの場合は、行為判定の難易度の設定によってシーンで描写される場所への移動のリスクを可変的に表現することも可能である。
 
シーン制のゲームでは上記のように移動におけるリスクを表現する処理を極端に簡略化しているのが特徴ではあるが、これは必ずしもプレイヤーキャラクターの移動における「移動時間」や「速度」の概念を排除しているとは限らないことに注意が必要である。シーン制のゲームでもプレイヤーキャラクターごとに移動速度が設定され、ゲーム内での一定時間ごとの移動距離が計算できるものは多い。ただ、それらは主に戦闘シーンなどで用いられる移動速度である。つまり、登場した「シーン」の中での移動は速度や時間で管理されるが、「シーン」から「シーン」への移動については速度や時間を管理しない、という二つの移動概念を持つのである。シーン内での移動に関する距離や速度、時間などを具体的に管理しているシーン制TRPGとしては、[[スタンダードRPGシステム]]の諸作品などが代表的である。
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これらとは逆に、シーン内の移動に関しても距離や速度の概念を簡略化しているゲームも存在する。[[異界戦記カオスフレア]]や[[レジェンド・オブ・フェアリーアース]]などがそれで、これらのゲームではシーン内では位置という概念は持つが距離という概念をゲーム的にもたない。プレイヤーキャラクターはシーン内の様々な位置に存在している人や物などに対して接触するための移動を行ことができる。しかし、その時にプレイヤーキャラクターと接触対象物との彼我距離は一切移動のリスクとしては表現されない。例え接触したい相手がはるか上空にいると描写されても、その上空が「シーン内」ならば、1回の移動を宣言するだけでそこにたどり着けるのである。逆に、接触したい相手がすぐそばにいると描写されても、1回の移動を同じように宣言する必要がある。このような距離の徹底的な簡略化は、戦闘においては大規模な戦場を簡単に描写できるということであり(どれだけ遠くに敵がいるような描写がされても、ルール的にはすぐそばにいるのと同じように処理できる)、プレイヤーキャラクターが初期状態から一騎当千の超人であるとして描かれるゲームにおいては、キャラクターイメージを理解させるのに有効に機能する。(ただし、『異界戦記カオスフレア』においては、GMが必要であれば複数回の移動を必要とする移動を表現してよい旨がルールに記述されており、距離の表現を否定しているわけではない。また、実際にそのような処理を記述した公式シナリオなどもリリースされており、シーン内であれば“必ず”移動できるわけではない。念の為)
 
===「シーンの外」という概念===
シーン制のTRPGの多くは、ゲームマスターによって描写されたシーンに登場していない(もしくは登場に失敗した)キャラクターの状態を定義するルールがある。
 
シーンに未登場キャラクターが現在どのような場所に存在しているか外」ということの処理の考えシーン制に見られる特徴でもある。シーン制において「世界」とはシン描写されたものが全てであってもゲる。シムタイトルごと描かれていい場所は、等しく「世界のどこか」であり重要ではない単純そのため、シーン未登場のキャラクターは最後にキャラクターが登場した場所にいるしてか山にいるゲームもあとかいうことは一切考えが、未登場のキャラクター必要ない。彼らはただ'''シーンの外'''におり、ゲーム内世界のどこにいるかは考えないとするゲーム方が主流である
<ref>「これは、映像的に考えてもらうとわかりやすいだろう。すべてのキャストが今、映っているフレームにいることはない。
では、誰かのキャストが個人行動を行なっている間、他のプレイヤーは、何をしているのか? 舞台裏にいるのだ。これから舞台裏に入ることを退場、舞台裏から出てくることを登場と表現することにしよう」
[[鈴吹太郎]]『トーキョーNOVA The Revolution』[[アスペクト]]、1998年、162頁「ポストアクト」より引用</ref>
 
この「シーンの外」という考え方はシーン制に見られる特徴でもある。シーン制においての「世界」とはシーン描写されたものが全てである。シーンに描かれていない場所は、等しく「世界のどこか」であり重要ではない。そのため、シーンに未登場なキャラクターが海にいるとか山にいるとかいうことは一切考える必要はない。彼らはただ「シーンの外」にいるのである。もしも、シーン未登場のキャラクターがそれまでどこにいたかが重要になる場合は、そのシーンが終わってから「シーンに未登場だったキャラクターたちが同じ時間で何をしていたかを表現するシーン」が新しくシーンとして描写される。シーンとして描写されることで初めて場所や時間に意味が持たされるのである。[[ファーイースト・アミューズメント・リサーチ]]社のゲームでは、この「シーンの外」の考え方を[[舞台]][[演劇]]にならって、'''舞台裏'''と呼ぶことが多い
 
多くのシーン制のゲームでは「シーンの外」でのみ行えることが定義されることがある。例えば、[[アルシャード]]では休息による[[ヒットポイント]]の回復などはシーンの外にいるキャラクターのみが行える、とされている。[[トーキョーN◎VA]]では、マスコミへの情報操作などで相手を社会的に抹殺する「社会戦」と呼ばれる行為は、時間のかかる行為として「シーンの外」でないと行えない場合がある。
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==脚注==
{{Reflist}}
<references />
 
{{デフォルトソート:しいんせい}}