「安帝 (漢)」の版間の差分

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5月には南匈奴が叛いたが、匈奴中郎将の[[馬翼]]がこれを討ち破った。6月には鮮卑が再び玄菟郡に侵攻した。秋7月には右校、左校令の丞官を復活させた。8月には[[耿寶]]を大将軍に任命した。9月に、元の皇太子の劉保を済陰王とした。冬10月に長安に行幸した。
 
延光4年([[125年]])2月に安帝は南に巡狩したが、3月に客死した。32歳であった。従兄弟の北郷侯・[[少帝懿|劉懿]](章帝の孫で済北王[[劉壽]]の子)が擁立され、閻皇后が皇太后として臨朝し、兄の[[閻]]が車騎将軍としてそれを助けた。
 
夏4月、太尉の[[馮石]]を太傅にし、司徒の劉熹を太尉に、参録尚書事で前司空の李郃を司徒となる一方、大将軍耿寶、中常侍[[樊豊]]、侍中[[謝惲]]、[[周広]]らが罪に問われ、樊豊、謝惲、周広は獄死し、耿寶は自殺した。安帝は恭陵に葬られた。廟号は恭宗。