「多門重共」の版間の差分

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[[1701年]]3月14日の赤穂事件の際には[[浅野長矩|浅野内匠頭長矩]]の取調べと切腹の際の副検死役(正検死役は、[[庄田安利|庄田下総守]])にあたったが、[[吉良義央|吉良上野介義央]]への刃傷のはっきりとした動機は聞き出せていない。しかしこの前後の浅野の様子を『多門筆記』に刻銘に記した。その著作による多門の自称ではあるが、切腹に当たって庄田は浅野の取り扱いに冷たかったが、多門のほうは「吉良はどうなるのか」と聞きすがる浅野に「老人なので長くは持つまい」と声をかけてあげるなど思いやったといわれる。
また最期に一目と望む浅野の寵臣[[片岡源五右衛門]]を主君長矩に目通しさせてあげたとも称している。
 
[[1703年]](元禄16年)10月から防火の仕事に従事し、[[1704年]](宝永元年)6月にはその功績で黄金三枚を賜った。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、[[1705年]]10月には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。[[1723年]]6月に死去。[[享年]]65歳。