「長戸大幸」の版間の差分

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*1971年9月までにメンバーチェンジを経て3人組となり「赤と黒」というバンド名で1972年2月1日に京都をフォークロックのメッカとすべく、デビューシングル「Mr.D.J.」を[[テイチク]]のBLACKレーベルよりリリースした。ラジオDJを風刺した作風となっており、ヴォーカル、ギター、作詞、作曲を担当。一作のみリリースし、残りのメンバー2名が大学卒業を機に解散。
*[[1972年]]、副業として京都「BAL」にてブティックを経営。(洋服のデザインなども行っている。)
*[[1975年]]上京、どうせ音楽をやるなら、目一杯トップと関わりたいと[[歌謡曲]]なら[[阿久悠]]と知り合おう、[[フォークソング|フォーク]]だったら[[フォーライフ・レコード]]がいいんじゃないかと、歌謡曲と[[ニューミュージック]]の両方から攻めるという戦略を実行した{{sfn|Jポップ批評50|2007|pp=116-119}}。六本木の事務所オフィス・トゥ・ワン([[阿久悠]]、[[森田公一]]、[[井上大輔]]などが在籍)に入り、作曲活動を開始する。デビュー作は1976年12月のシーチャン・ブラザーズ。また、[[石原裕次郎]]、[[橋幸夫]]、[[和田アキ子]]などの楽曲に[[作曲家]]として活躍する。一方で傍ら[[フォーライフ・レコード|フォーライフ]]の1975年第一回新人オーディションに応募して、[[川村ゆうこ]]、[[原田真二]]らと最終の4人に残る{{sfn|Jポップ批評50|2007|pp=116-119}}。フォーライフより1977年8月27日までの新人ツアー「FORLIFE Fresh Forward FESTIVAL」への出演と、8月25日「軽い気持で」(FLS-1008)でソロデビューとが予定されていたが、表方より裏方の方が面白いと感じ、ツアーを途中降板した。見本盤は作られたがデビューはしていない{{sfn|Jポップ批評50|2007|pp=116-119}}。また、マネージメントオフィスBIG MUSICを設立し、妹尾隆一郎のマネージャーを引き受ける。
*[[1977年]]、アメリカ・ナッシュビルに[[舘ひろし]]と渡米し、録音。ここで「朝まで踊ろう」(長戸大幸作曲)をレコーディングしてリリースした。
*[[スピニッヂ・パワー]]の「ポパイ・ザ・セーラーマン」を「Danny Long」名義(後に判明)で制作して、ヒットさせたことから、[[1978年]]11月、ビーイングを設立。その後、群馬県高崎から寺西修(後の[[氷室京介]])を連れてきて、[[スピニッヂ・パワー]]第三期ヴォーカルとしてデビューさせたりと様々な活動をする。
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== 出典 ==
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=宝泉薫|year=2007|month=10|title=“Jポップの父” ビーイング/長戸大幸の闘い|journal=音楽誌が書かないJポップ批評50 Zardのアーリー90'sグラフィティ|publisher=[[宝島社]]|isbn=978-4-7966-5946-8|ref={{SfnRef|Jポップ批評50|2007}}}}
 
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