「ピエール・ダイイ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
4行目:
 
== 生涯 ==
ダイイは[[コンピエーニュ]]の繁盛していた肉屋の子として生まれた。[[1364年]]頃から[[パリ]]の[[コレージュ・ド・ナヴァル]]で学び、[[1381年]]に[[神学]]のmaîtreとなり、[[1384年]]には同コレージュの講師となった。彼は[[1389年]]には国王[[シャルル6世_(フランス王)|シャルル6世]]付きの礼拝堂牧師となり、同年に[[パリ大学]]総長に任命された。彼が教え子の中で特に目をかけていたのは、[[ジャン・ジェルソン]]である。ジェルソンは後年ダイイの友となり、パリ大学総長の座を引き継ぐことにもなる。
 
当時は[[教会大分裂]]期であった。ダイイはその中で[[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョン]]の[[対立教皇]][[ベネディクトゥス13世_(対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]に受け入れられ、[[ル・ピュイ]]司祭(1395([[1395]])や[[カンブレー]]司祭(1397([[1397]])に任命された。ダイイは[[ブルゴーニュ派]][[アルマニャック派]]の争い([[百年戦争]]を参照)に干渉したため、前者から敵視されることになり、[[1418年]]に彼らが(蹂躙を加えつつ)首府を占拠した際には、そこへの立ち入りを禁じられることになる。
 
ダイイは[[1411年]]に、[[ピサ]]の対立教皇[[ヨハネス23世_(対立教皇)|ヨハネス23世]]によって[[枢機卿]]に任命され、[[1413年]]にはドイツ教皇特使に任命された。しかし、彼は[[コンスタンツ公会議]]ではその庇護を放棄する形で、教会大分裂終息のために、新教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]の擁立に関する主導的な役割を果たした。この公会議では、彼は、教会のみならず社会的にも脅威と判断した[[ヤン・フス]]の有罪宣告にも尽力した。
 
ダイイはマルティヌス5世によって、教皇特使としてアヴィニョンに派遣され(1418年)、その地で1420年に没した。