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== 生涯 ==
ダイイは[[コンピエーニュ]]の繁盛していた肉屋の子として生まれた。[[1364年]]頃から[[パリ]]の[[コレージュ・ド・ナヴァル]]で学び、[[1381年]]に[[神学]]のmaîtreとなり、[[1384年]]には同コレージュの講師となった。
当時は[[教会大分裂]]期であった。ダイイはその中で[[アヴィニョン教皇庁|アヴィニョン]]の[[対立教皇]][[ベネディクトゥス13世_(対立教皇)|ベネディクトゥス13世]]に受け入れられ、[[ル・ピュイ]]司祭
ダイイは[[1411年]]に、[[ピサ]]の対立教皇[[ヨハネス23世_(対立教皇)|ヨハネス23世]]によって[[枢機卿]]に任命され、[[1413年]]にはドイツ教皇特使に任命された。しかし、彼は[[コンスタンツ公会議]]ではその庇護を放棄する形で、教会大分裂終息のために、新教皇[[マルティヌス5世 (ローマ教皇)|マルティヌス5世]]の擁立に関する主導的な役割を果たした。この公会議では、彼は、教会のみならず社会的にも脅威と判断した[[ヤン・フス]]の有罪宣告にも尽力した。
ダイイはマルティヌス5世によって、教皇特使としてアヴィニョンに派遣され(1418年)、その地で1420年に没した。
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