「織田信忠」の版間の差分

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=== 人物評価 ===
* かつては徳川史観から来た[[松平信康]]との比較で暗愚な凡将との評価が定評だったが、現在では、信長には及ばないものの後継者としては十分な能力・資質を備えた武将との評価が主流になっている。信忠を暗愚とする根拠は、[[高柳光寿]]の著書『青史端紅』において、松平信康切腹事件の真相について語られた説に由来する。この説によれば、信長が、自分の嫡子である信忠に比べて、家康の嫡子信康の方が遙かに優れていたため、嫡子の将来を危惧し信康を除いたことが事件の真相であるという。この説は、高柳光寿が当時の学会で権威を持っていたこともあって広く浸透し、その結果、信忠を暗愚とするイメージが長く定着することとなった。この説は、あくまで信康の切腹を中心に据え、その動機の一つの可能性を示したに過ぎず、両者の事績を冷静に比較したものではない。そのため近年、信忠の事績が見直され、信長の後見を考慮に入れても信忠は無難に軍務や政務をこなしていたことが指摘された。そのため信忠が暗愚であるとする従来の説は根拠に乏しいとの見方が有力になり、現在主流の評価に移ってきている。いずれにしても人物評が定着するのはまだ先のことであろう。
* 本能寺の変において、信長には脱出できる可能性は皆無だったが、信忠には京都から脱出できる可能性があった{{Efn|[[織田長益]]や[[前田玄以]]らが脱出しているのを見てもわかるように、光秀は京都を封鎖していなかった。}}。歴史に「もし」は許されないが、もし信忠が生きていたら[[織田政権]]は崩壊せず存続したとする見解もある<ref name="歴史群像"/>。なお、当代記によれば、光秀襲撃の際に側近の中には安土に逃げて再起を図るように諫言する者もいたが「これほどの謀反を企てる奴(光秀)なら、どうして洛中の出入り口に手をまわしていないであろうか。無様に逃げ出して途中で果てることこそ無念である。悪戯にこの場所から退くべきではない」と述べたという。これが事実だとすれば、この決断は誤りで余りに信忠は潔すぎたといえる<ref name="歴史群像"/>が、この当代記に記載された逸話の信憑性は不確かである。
 
=== 逸話 ===