「バテレン追放令」の版間の差分

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{{Otheruses|1587年に豊臣秀吉が出したもの|1613年に江戸幕府によって出されたもの|禁教令}}
'''バテレン追放令'''(バテレンついほうれい・'''伴天連追放令''')は、[[1587年]][[7月24日]]([[天正]]15年[[6月19日 (旧暦)|6月19日]])に[[豊臣秀吉]]が[[筑前国|筑前]]箱崎(現・[[福岡県]][[福岡市]][[東区 (福岡市)|東区]])において[[豊臣秀吉]]が発令した[[キリスト教]]宣教と[[南蛮貿易]]に関する禁制文書。[[バテレン]]とは、[[ポルトガル語]]で「[[神父]]」の意味の{{Pt|padre}}に由来する。
 
原本は『松浦家文書』にあり、[[長崎県]][[平戸市]]の[[松浦史料博物館]]に所蔵されている。通常、「バテレン追放令」と呼ばれる文書はこの『松浦家文書』に収められた6月19日付の五か条の文書(以下便宜的に「追放令」と記す)を指すが、[[1933年]](昭和8年)に[[伊勢神宮]]の神宮文庫から発見された『[[御朱印師職古格]]』の中の6月18日付の11か条の覚書(以下便宜的に「覚書」と記す)のことも含めることがあるので注意が必要である。さらに後者の11か条の覚書が発見されて以降、五か条の追放令との相違点がある理由や二つの文書の意味づけに関してさまざまな議論が行われている。
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豊臣秀吉は元来[[織田信長]]の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。[[1586年]](天正14年)[[3月16日 (旧暦)|3月16日]]には[[大坂城]]に[[イエズス会]]宣教師[[ガスパール・コエリョ]]を引見し、同年[[5月4日 (旧暦)|5月4日]]にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。
 
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化されていることを知らされた。これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を認め、この翌日の[[6月19日 (旧暦)|6月19日]]([[7月24日]])ポルトガル側通商責任者([[カピタン・モール]])[[ドミンゴス・モンテイロ]]とコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
 
=== 『天正十五年六月十八日付覚』原文 ===
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以上 天正15年(1587年)6月19日<!--本文を起草した施薬院全宗については下記で--></small>
 
ただ、この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡している。キリスト教への強制の改宗は禁止するものの、民衆が個人が自分の意思でキリスト教を信仰することは自由とし、大名が信徒となるのは秀吉の許可があれば可能とした。事実上は信仰の自由を保障するものであった<ref>[http://www.mclaw.jp/01division/jt_txt_taiheiyo3.html「太平洋の覇権(3) 日本の「鎖国」」 ]、 2011年4月4日閲覧。 </ref> この直後、秀吉は長崎をイエズス会から奪還し、天領とする。
 
== 「追放令」の起草 ==
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禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会([[南蛮寺]])を破却、長崎の公館と教会堂を接収してはいるが、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのは[[サン=フェリペ号事件]]以後のことである。このため宣教師は再び各地に分散または潜伏し、この追放令は空文化した。
 
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは[[徳川家康]]の命による[[1614年]]([[慶長]]19年)の[[禁教令|キリスト教禁止令]]以降のことになるが、家康の禁教令も言い回しなど基本的な部分においてこの秀吉のバテレン追放令にならうものとなっている。
 
== 参考文献 ==
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== 出典 ==
{{reflist}}
 
== 関連項目 ==
* [[宗門改]]
* [[高山右近]]
* [[神国]]
* [[禁教令]]
 
== 外部リンク ==
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* {{Kotobank|神国思想|2=世界大百科事典 第2版}}
* {{Kotobank|曲直瀬道三(初代)|2=朝日日本歴史人物事典}}
 
== 関連項目 ==
* [[宗門改]]
* [[高山右近]]
* [[神国]]
* [[ポルトガル人による日本人などのアジア人の奴隷貿易]]
 
{{豊臣政権}}