「ヴィットリオ・デ・シーカ」の版間の差分

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渚月 (会話 | 投稿記録)
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| 活動期間 = 1917年 - 1974年
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[ジュデッタ・リッソーネ]](1937年 - 1968年)※離婚<br />[[マリア・メルカデル]](1968年 - 1974年)※死別
| 著名な家族 = [[マヌエル・デ・シーカ]](長男、作曲家)<br />[[クリスチャン・デ・シーカ]](次男、俳優)
| 事務所 =
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| カンヌ国際映画祭 = '''[[パルム・ドール|グランプリ]]'''<br />[[第4回カンヌ国際映画祭|1951年]] 『ミラノの奇蹟』
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第21回ベルリン国際映画祭|1971年]] 『悲しみの青春』
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />[[第44回アカデミー賞|1971年]]『悲しみの青春』
| ゴールデングローブ賞 = '''[[ゴールデングローブ賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]'''<br />1961年『ふたりの女』<br />1964年『[[ああ結婚 (映画)|ああ結婚]]』
| 備考 =
}}
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== 来歴 ==
1901年7月7日にイタリアの[[フロジノーネ県]][[ソーラ]]で会社員の末子として生まれる。父の給料は少ないため生活は苦しく、2人の姉と共にアルバイトで家を助けながら高校を卒業した<ref name="horupu">瓜生「デ・シーカ」『世界伝記大事典 世界編』6巻、334-335頁</ref>。高校卒業後は俳優の道を歩み、兵役で芸能活動を中断しながらも、二枚目の役者・流行歌手として人気を得る<ref name="horupu" />。[[1931年]]ごろから[[イタリアの映画|イタリア映画]]に出演、[[マリオ・カメリーニ]]の下で映画を学び、[[1940年]]に『{{仮リンク|紅バラ (イタリアの映画)|en|Rose scarlatte|label=紅バラ}}』で映画監督としてデビューした。
 
[[1944年]]に脚本家の[[チェーザレ・ザヴァッティーニ]]とコンビを組んで制作した『子供たちは見ている』は、[[ルキノ・ヴィスコンティ]]の『[[郵便配達は二度ベルを鳴らす (1942年の映画)|郵便配達は二度ベルを鳴らす]]』、[[アレッサンドロ・ブラゼッティ]]の『{{仮リンク|雲の中の散歩|en|Four Steps in the Clouds}}』と並んで[[ネオレアリズモ]]の嚆矢と見なされている<ref name="horupu" />。
 
[[第二次世界大戦]]後に再びザヴァッティーニと組んで制作した『靴みがき』や『[[自転車泥棒 (映画)|自転車泥棒]]』は、ネオレアリズモを代表する作品として評価されている<ref name="horupu" />。1951年の『ミラノの奇蹟』で[[カンヌ国際映画祭]]グランプリを受賞するが、1950年代に入ってネオレアリズモの動きは停滞し、旗手の一人であるデ・シーカもまた壁に当たる<ref name="horupu" />。
 
1953年に資金獲得のために方向性を転換して[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画界]]の俳優を起用した『[[終着駅 (映画)|終着駅]]』を制作する<ref name="horupu" />。
 
1957年には『[[武器よさらば]]』にイタリア人軍医役として出演し、[[アカデミー助演男優賞]]にノミネートされた。老年に至っても『[[パンと恋と夢]]』『[[ロベレ将軍]]』などの作品に俳優として出演した。
 
1970年、[[ソビエト連邦]]の後援によって『[[ひまわり (映画)|ひまわり]]』を発表<ref name="horupu" />、1971年の『悲しみの青春』で[[ベルリン国際映画祭]][[金熊賞]]を受賞した。
 
=== 私生活 ===
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[[category:イタリアの映画監督]]
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
[[category:イタリアの優]]
[[Category:ラツィオ州出身の人物]]
[[Category:1901年生]]