「平禅門の乱」の版間の差分

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『[[保暦間記]]』によると、頼綱と不和だった嫡男の[[平宗綱]]が「頼綱が次男の資宗を将軍にしようとしている」と貞時に讒訴したという。予兆があったのか、頼綱はかつて泰盛調伏の祈祷を依頼した山門の護持僧に、「世上怖畏」として自身の身の安全を祈らせている。
 
『親玄僧正日記』によれば、永仁2年4月21日(翌22日が乱から1年にあたる)に貞時が[[親玄]](幕府護持僧、[[久我通忠]]の子)に対して、「追善目的ではない」と断りつつも頼綱一門のために祈らせている<ref>高橋慎一朗「『親玄僧正日記』と得宗被官」(初出:五味文彦 編『日記を中世に読む』(吉川弘文館、1998年)/所収:高橋『日本中世の権力と寺院』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-02932-2)</ref>。
 
この政変とその前に起こった鎌倉大地震を機に、正応の年号は8月に[[永仁]]に改元された。
 
以後、頼綱一族ら[[御内人]]の勢力は一時後退して、貞時の専制政治が始まる。[[北条顕時|金沢顕時]]や[[安達氏]]など霜月騒動で没落を余儀なくされた勢力も徐々に幕府中枢に復帰した他、[[矢野倫景]]など貞時に近い法曹官僚も重用された。また、頼綱の一族でも頼綱の弟(または従兄弟)とされる[[長崎光綱]]は引き続き貞時に重用された。
 
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[霜月騒動]]