「ヴュルテンベルク王国」の版間の差分

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[[宮廷ユダヤ人]]のカウラ一族が残した本によると、ヴュルテンベルクの商圏は中世末期すでに帝国の外へ及んだ。[[ウルム]]は[[ストラスブール]]とコルレス関係にあった。ラーフェンスブルクの[[:de:Große Ravensburger Handelsgesellschaft|大商会]]の手形は[[ブラバント]]に十分通用した。また[[:de:Wilhelm Heyd|ハイト]]によると、この大商会はスイスの[[ベルン]]とコルレス関係にあり[[ジュネーヴ]]資本を相手に訴訟を戦うこともあったし、[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]が1488年[[ネーデルラント]]に創設した軍(Fähnlein Lindauer)へは大商会の[[アントウェルペン]]支店が融資をすることもあった。[[価格革命]]と[[三十年戦争]]が起こり、ヴュルテンベルクは衰退した。<ref name=AL>Arthur Löwenstein, "Geshichte des württembergischen Kreditbankwesens und seiner Beziehungen zu Handel und Industrie, 1850-1870", Tübingen, 1912. (博士論文)</ref>
 
1534-5年ごろ、[[ウルリヒ (ヴュルテンベルク公)|ウルリヒ侯]]が牧羊を奨励し、多くの布告を出した。それらは全頭登録制と牧童ギルド設立を実現し、牧場管理内容とそこでの勤務条件だけでなく羊毛の販売条件まで詳細に定めた。公国の手法は各地へ伝播していった。<ref>大内輝雄 『[[メリノ種|羊蹄記]]』 平凡社 1991年 72頁</ref>
 
このときウルリヒが[[修道院]]を破壊したことも、産業が衰退した一因となった。
 
[[ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマー]]の生きた時代に、再び公国は世界市場で競争力を得た。1704年、[[エーバーハルト・ルートヴィヒ (ヴュルテンベルク公)|エーバーハルト・ルートヴィヒ]]が[[シュトゥットガルト]]に王立銀行を設けた。[[ヴュルテンベルク家]]の分家に[[ウラッハ家]]という名前がある。[[ロイトリンゲン]]のウラッハには、ウラッハ・リンネルという繊維産業があった。[[カルフ]]にも類するものがあった。これらは全君主領で活躍し、公国の金融を担うようになった。ズュースが処刑されたころに、王立銀行と繊維産業は勢いを失った。<ref name=AL />