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[[File:Turpin Putting a Woman on the Fire.JPG|thumb|alt=A monochrome illustration of a man pushing a woman toward an open fireplace, which is in use. Two men stand to his right, one armed with a pistol. All three men appear to be smiling.|[[ニューゲート・カレンダー]]に載せられたラフトンでの襲撃事件のイラスト(19世紀作)]]
[[1734年]]10月までにギャング団の何人かが逮捕されたり逃亡し<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=34}}</ref>、残りの団員は密猟をやめ、{{仮リンク|ウッドフォード (ロンドン)|label=ウッドフォード|en|Woodford, London}}で[[蝋燭]]や[[グロサリー|食料雑貨]]を売っていた商人ピーター・スプリットの家を襲撃した{{refnest|group="注"|ピーター・スプリット({{lang-en-short|Peter Split|links=no}})の名前は、{{en|"Peter '''Strype'''"}} とされることも多いが、この間違いは1739年にベイズが書いた盗みの陳述書に遡るものである<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=43}}</ref>。}}。この事件の犯人の身元は分かっていないが、ターピンが関わっていた可能性がある{{refnest|group="注"|ターピンが[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]に送り返された時、ニューカッスル公爵からヨークの判事宛に送られた手紙の中でスプリットに言及がある。同じ手紙の結びには、ターピンが無罪になったとしても、この事件やその他の盗みに関する審理のため、ターピンが監獄に留め置かれるべきだとされている<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=44}}</ref>。}}。2日後にも再びウッドフォードを訪れ、[[ロンドン塔]]の武器庫で小火器を作る家具商の[[ジェントルマン|紳士]]、リチャード・ウールリッジの家を襲った。12月には、ジャスパーとサミュエルのグレゴリー兄弟、ジョン・ジョーンズ、ジョン・ウィーラーは{{仮リンク|チンフォード|en|Chingford}}で[[行商|行商人]]ジョン・グラッドウィンとジョン・ショックリーの家を襲った <ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=43–50}}</ref>。[[12月19日]]、ターピンは5人の男と共に、300[[スターリング・ポンド|ポンド]]の財産があるとされていた[[バーキング (ロンドン)|バーキング]]出身のアンブロー・スキナーという73歳の農場主の家を襲撃した<ref name="Sharpepp109113">{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=109–113}}</ref>。
 
2日後、ターピンを除いたギャング団のメンバーが、{{仮リンク|エッピング・フォレスト|en|Epping Forest}}で猟場番人ウィリアム・メイソンの家を襲った。略奪の間にメイソンの使用人は逃げ延びたが、約1時間後に数人の近隣に住む人々とともに戻ってみると、家は荒らされ、盗賊は姿を消していた<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=58–64}}</ref>。[[1735年]][[1月11日]]、ギャング団は[[チャールトン]]のサンダース家を襲撃した<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=70–72}}</ref>。1週間後に[[クロイドン]]でシェルドンという紳士の家を略奪した時、ターピンは仮面を被り[[拳銃|ピストル]]を構え、4人の仲間を従えて現れた。同じ月には、同じギャング団と考えられる2人の男が[[牧師]]であるダイドの家を襲った。牧師は留守であったが、男たちは下男の顔を「野蛮なやり方で」({{lang-en-short|"in a barbarous manner"|links=no}})切りつけた。ほかにも、1735年[[2月1日]]には、[[エセックス]]の{{仮リンク|ラフトン|en|Loughton}}で残酷な襲撃事件を起こしている<ref name="Sharpepp109113">{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=109–113}}</ref>。
 
[[ファイル:Epping_Forest_Centenary_Walk_2_-_Sept_2008.jpg|代替文=Sunlight streams through the green leaves of tall trees in a forest, through which a narrow metalled road snakes.|左|サムネイル|エッピング・フォレストはエセックス・ギャング団がよく出没する場所であった。]]
ギャング団はロンドン市街または近郊に住んでいた。ターピンは暫く[[ホワイトチャペル]]に住み、その後{{仮リンク|ミルバンク|en|Millbank}}に引っ越した<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=83}}</ref>。1735年[[2月4日]]、ターピンはロンドンの{{仮リンク|ブロードウェイ (ロンドン)|label=ブロードウェイ|en|Broadway, London}}にある宿屋でジョン・フィルダー、サミュエル・グレゴリー、ジョセフ・ローズ、ジョン・ウィーラーと会談した。彼らは[[エッジウェア]]でアールスベリー農場({{lang-en-short|Earlsbury Farm|links=no}})を営むジョセフ・ローレンスの家に押し入る計画を立てた。その日の午後遅く、道すがら2度、飲食に立ち寄ったのち、[[羊飼い]]の少年を捕らえ、ピストルを手に家へと押し入った。2人の女中を縛り上げ、70歳の農場主に容赦なく暴力を振るった。彼らは農場主の[[オー・ド・ショース|半ズボン]]をくるぶしまで引っ張り、家の中を引きずり回したが、ローレンスは財産の隠し場所を教えまいと拒んだ。ターピンはローレンスの尻を露出させるとピストルで殴打してひどい打撲を負わせ、ギャング団のほかの仲間はピストルで彼の頭を殴りつけた。彼らは窯の水をローレンスの頭にぶちまけ、尻を露わにして火の上に座らせ、鼻と髪をつかんで家じゅうを引きずり回した。グレゴリーは女中の1人を上階に連れていき[[強姦]]した。そこまでしたにもかかわらず、ギャング団は30ポンド以下の儲けしか手に入らずに立ち去ることとなった<ref name="Sharpepp116119">{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=116–119}}</ref>。
 
3日後、ターピンはローレンス家襲撃犯にウィリアム・サンダースとハンフリー・ウォーカーを加え、[[メリルボーン|メリルボン]]にある農家を襲ったが、その襲撃でも90ポンド足らずの利益しか得ることができなかった。翌日、ニューキャッスル公はウッドフォードで起こった2件の強盗と、シェリー未亡人およびダイド神父が被害に遭った強盗に関わる「複数の人物」を捕えるため、手がかりとなる情報を提供した者に50ポンドの賞金を与えると約束した。[[2月11日]]には、フィールダー、サンダース、ウィーラーが逮捕された。この逮捕に関しては2つの記録が残っており、1つはギャング団がローレンス家を略奪しに行く道中で酒場に寄ったこと、その主人が2月11日当日に[[ブルームスベリー]]の酒場の外に馬がまとめて留められているのを見つけたと示している。彼はローレンス家の襲撃の前に同じ男たちの一団が同じ馬を自分の店に留めていたことに気づき、教会区の治安官{{enlink|Parish constable}}に知らせた。もう一方の記録には、ギャング団のうちの2人がジョセフ・ローレンスの使用人に見抜かれたと書かれている<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=111}}</ref>。そして、残りの3人は、1人の女(おそらくはメアリー・ブレイジアー)と共に飲んでいるところを素早く逮捕され、[[投獄]]された{{refnest|group="注"|ベイズ (Bayes) の記録では、ターピンが窓から逃げていったと記されている。{{Harvnb|Barlow|1973}}に従えば、彼がそこにいたという証拠は弱く、ターピンの行動に関するベイズの記録は、潤色が含まれている可能性が非常に高い<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=113–114}}</ref>。}}。当時わずか15歳だったウィーラーはすぐに仲間を裏切り、まだ逮捕されていない仲間について供述し、それが広く報道された。[[ロンドン・ガゼット]](英国政府官報)には、ターピンは「肉屋リチャード・ターピンは、背は高く溌剌とした男で、[[天然痘]]の痕が目立つ。26歳前後、身長5[[フィート]]9[[インチ]]。かつてホワイトチャペルに住み、最近は[[シティ・オブ・ウェストミンスター|ウェストミンスター]]のミルバンク周辺に宿をとっていた。青みがかった灰色のコートを着ており、鬘は着用していない」と書かれている{{refnest|group="注"|原文:"Richard Turpin, a butcher by trade, is a tall fresh coloured man, very much marked with the small pox, about 26 years of age, about five feet nine inches high, lived some time ago in Whitechapel and did lately lodge somewhere about Millbank, Westminster, wears a blue grey coat and a natural wig."<ref name="LondonGazette7379">{{London Gazette|issue=7379|date=22 February 1734|startpage=1|accessdate=8 October 2010}}</ref>}}。
ウィーラーの供述が出回ると、ギャング団のほかの団員は縄張りから逃亡した。ターピンはグレゴリーほか仲間たちにウィーラー逮捕を知らせ、[[ウェストミンスター]]に逃れた<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=120}}</ref>。[[1735年]][[2月15日]]、ウィーラーが当局への供述を進めている間、「3、4人の男」(サミュエル・グレゴリー、ハーバート・ヘインズ、ターピンとされ、トマス・ローデンの参加も考えられる)が{{仮リンク|チンフォード|en|Chingford}}でセント・ジョン夫人の家を略奪した。その翌日、ターピン(とローデン)はグレゴリー、ヘインズと仲間割れし、家族に会うため{{仮リンク|ヘンプステッド (エセックス)|label=ヘンプステッド|en|Hempstead, Essex}}へ向かった。2月17日にグレゴリーとヘインズが[[エセックス]]・{{仮リンク|デブデン (エッピング・フォレスト)|label=デブデン|en|Debden, Epping Forest}}の酒場に立ち寄り、1泊しようとして[[羊]]の肩肉を注文したことから、2人はターピンを探しに行ったのではないかとされている。しかし、パルマーという人物が2人を見つけ、教会区の治安官に報告した。騒ぎの末、2人は逃げおおせた。彼らはターピンと再び徒党を組み、ウッドフォードに戻る前に、ジョーンズとローデンと共に{{仮リンク|グレイヴゼンド|en|Gravesend}}{{refnest|group="注"|グレイヴゼンドで[[2月17日]]に起きた強盗は、ギャング一味の数人が関わった可能性があるが、この日ターピンはエセックスにいたため、事件には関与していない<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=130–131}}</ref>。}}へ向かった<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=126–132}}</ref>。2月下旬にウッドフォードで新たな強盗があったことが報告されており、これはグレゴリーとその仲間による仕業である可能性があるが、逃亡に使うほとんどの道路は遮断され、当局が目を光らせる中、エセックス・ギャング団の残りのメンバーは{{仮リンク|エッピング・フォレスト|en|Epping Forest}}で鳴りを潜めていた<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=139}}</ref>。
 
フィールダー、サンダース、ウィーラーの逮捕から6日後、ターピンと仲間たちがグレイヴゼンドから戻ってくる最中に、ローズ、ブレイジアー、ウォーカーがウェストミンスターの雑貨屋で[[フルーツポンチ|パンチ]]を飲んでいるところを逮捕された<ref name="Sharpepp119123">{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=119–123}}</ref>。フィルダー、ローズ、サンダース、ウォーカーの裁判は、[[ミドルセックス]]の[[四季裁判所]]{{enlink|Middlesex Quarter Sessions}}で[[1735年]][[2月26日]]から[[3月1日]]まで行われた<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=145}}</ref>。そこでターピンとグレゴリーも住居侵入罪で告発された<ref>{{Citation|title=John Field, Joseph Rose, Theft&nbsp;– burglary, Violent Theft&nbsp;– robbery, 26th February 1735|date=26 February 1735|url=http://www.oldbaileyonline.org/browse.jsp?id=t17350226-45&div=t17350226-45|publisher=oldbaileyonline.org|accessdate=9 November 2009}}</ref><ref>{{Citation|title=John Field, Joseph Rose, Humphry Walker, William Bush, Theft > burglary, Violent Theft > robbery, Violent Theft > robbery, 26th February 1735|date=26 February 1735|url=http://www.oldbaileyonline.org/browse.jsp?id=t17350226-46&div=t17350226-46|publisher=oldbaileyonline.org|accessdate=9 November 2009}}</ref>。ウォーカーは[[ニューゲート監獄|ニューゲート刑務所]]に収監中に死亡したほか、ほかの3人は[[3月10日]]に[[タイバーン]]で[[絞首刑]]にされ、死体が腐敗するまで{{仮リンク|エッジウェア・ロード|en|Edgware Road}}で晒された。ウォーカーの死体は鎖に巻かれて吊るされた<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=169}}</ref>。絞首刑の2日前、{{仮リンク|イースト・シーン|en|East Sheen}}の酒場から届いた「4人の容疑者」についての報告が新聞記事に掲載され、その中でグレゴリーとその仲間とおぼしき人物が廟刺されている<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=165}}</ref>。しかし、残りのエセックス・ギャング団員については、[[3月30日]]にそのうちの3人がサフォーク伯の使用人の[[馬]]を盗もうとして失敗するまで報道されなかった。ターピンは4人の仲間と別の強盗事件に関与し、この件は[[3月8日]]に報道された<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=169–170}}</ref>。その間にジャスパー・グレゴリーが逮捕され、3月下旬に処刑された。彼の兄弟は[[ウェスト・サセックス]]の{{仮リンク|ロウゲイト|label=レイク|en|Rogate}}({{lang-en-short|Rake|links=no}})で[[4月9日]]に乱闘の末逮捕されたが<ref name="Barlowp182">{{Harvnb|Barlow|1973|p=182}}</ref>、その騒動の中でサミュエルは剣で鼻の先を削がれ、ジェレミーは足を撃たれている。ジャスパーは{{仮リンク|ウィンチェスター刑務所|label=ウィンチェスター監獄|en|HM Prison Winchester}}で死亡し、サミュエルは5月に裁判にかけられ<ref>{{Citation|title=Samuel Gregory, Theft > burglary, Violent Theft > robbery, Sexual Offences > rape, Theft > animal theft, Theft > burglary, Violent Theft > robbery, 22nd May 1735|date=22 March 1735|url=http://www.oldbaileyonline.org/browse.jsp?id=t17350522-20&div=t17350522-20|publisher=oldbaileyonline.org|accessdate=9 November 2009}}</ref>、[[6月4日]]に処刑された。彼の死体はその後、ほかの仲間と共にエッジウェアで鎖に巻かれて吊るされた。メアリー・ブレイジアーはアメリカの[[13植民地|13州植民地]]に[[流罪|流刑]]となった<ref name="Sharpepp123127">{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=123–127}}</ref>。ハーバート・ヘインズは4月13日に逮捕され、8月に処刑された<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=186, 219}}</ref>。かつての仲間の所業を白状していたジョン・ウィーラーは釈放されたが、[[1738年]]1月に{{仮リンク|ハックニー (小教区)|label=ハックニー|en|Hackney (parish)}}で死亡した。死因は記録されていないが、自然死とみなされている<ref name="Sharpep131">{{Harvnb|Sharpe|2005|p=131}}</ref>。
 
== 追い剥ぎ ==
{{Quote box |quoted=true |bgcolor=#FFFFF0 |salign=center | quote = [...] キングはピストルを素早くベイズの胸にピタリと当てたが、幸いにも弾は火皿の中で少し発火しただけであった。すぐさまキングはもう一つのピストルを取り出そうとしたが、ポケットの中で引っかかり取り出すことができなかった。ターピンは近くで馬に乗ったまま待ち、小競り合いの音を聞いていた。そしてキングの叫び声がしたとき、彼はキングを撃った。ターピンはキングに2発の銃弾を撃ち込んだ。「ディック、俺を殺したな」と叫ぶキングの声を聞いて、ターピンはすぐに馬で逃げ去った。キングはその後1週間は生きていたが、この傷により死亡し、彼はターピンを臆病者呼ばわりした。 [...] | source = リチャード・ベイズ{{refnest|group="注"|原文:{{en|[...] King immediately drew a Pistol, which he clapp'd to Mr Bayes's Breast; but it luckily flash'd in the Pan; upon which King struggling to get out his other, it had twisted round his pocket and he could not. Turpin, who was waiting not far off on Horseback, hearing a Skirmish came up, when King cried out, Dick, shoot him, or we are taken by G—d; at which Instant Turpin fir'd his Pistol, and it mist Mr. Bayes, and shot King in two Places, who cried out, Dick, you have kill'd me; which Turpin hearing, he rode away as hard as he could. King fell at the Shot, though he liv'd a Week after, and gave Turpin the Character of a Coward [...]}}<ref>{{Harvnb|Bayes|1739|p=12}}</ref>}} | align=right | width=33%}}
 
[[1736年]]のターピンの活動についてはほとんど知られていない。多くの目撃情報から[[ホラント]]([[オランダ]]の西部地域)へ旅をしたのではないかとされているが、名を偽って人々の前から姿を消していたともいわれる。しかし[[1737年]]2月、彼は妻とそのメイド、そしてロバート・ノットという男とともに、[[ハートフォードシャー]]・{{仮リンク|パッカリッジ|en|Puckeridge}}で1泊している<ref name="Sharpepp131134">{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=131–134}}</ref>。ターピンは手紙で略奪の打ち合わせ日時を決めようとしていたが、その手紙は当局の手に渡った<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=258–259}}</ref>。ターピンが敵の目をかいぐって[[ケンブリッジ]]へ逃げようとしている間に、ほかのメンバーは「危険なならず者としての暴行容疑と公道上での窃盗」の罪で逮捕された。彼らは[[ハートフォード (ハートフォードシャー)|ハートフォード]]の監獄に収監され、その後、女性たちは無罪となった(またノットは次の巡回裁判で釈放された)。3月後半には、ターピンが珍しくも1人で[[行商|行商人]]の一団を襲ったと報告されたが、同月にはほかの2人の追い剥ぎ仲間、マシュー・キング(のちにトム・キングの間違いと分かった)とステファン・ポッターとともに窃盗を働いていると報道されている。3人は[[1737年]]3月から4月にかけての一連の窃盗事件の罪に関与していたが<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=262–264}}</ref>、この関係はキング(資料によってはターピンともいわれる)がウォルサム・フォレストの近くで馬を盗んだことで突然終了した。{{仮リンク|レイトンストーン|en|Leytonstone}}のグリーン・マン宿({{lang-en-short|The Green Man public house}})の主人で馬の飼い主のジョセフ・メイジャーは、リチャード・ベイズに窃盗被害を届け出た。ベイズ(のちにターピンの伝記を書いた人物)は[[ホワイトチャペル]]の「赤獅子亭」({{lang-en-short|The Red Lion|links=no}}、レッド・ライオン、ロンドン各地にみられる酒場の名称)」まで馬の後を追った。メイジャーは自分の馬を見つけたが、夕方遅い時間で馬も「新しい飼い主」の元にいなかったため、彼らは寝ずの番をすることに決めた。ジョン・キング(マシュー・キングの兄弟)が夜遅くに現れ、潜んでいた彼らと地元の治安官によってすぐに逮捕された。ジョン・キングはそばで待っていたマシュー・キングの居場所を彼らに教えた<ref group="注">当時の新聞は、ジョン・キングをマシュー・キングと誤って報道しており、またマシューの名前は「ロバート」と報じられている。</ref><ref>{{Harvnb|Barlow|1973|pp=272–274}}</ref>。乱闘の末、キングは撃たれて重傷を負い<ref name="Sharpepp131134">{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=131–134}}</ref>、5月19日に死亡した<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=292}}</ref>。ポッターはのちに逮捕されたが、証拠不十分で釈放となった<ref>{{Harvnb|Barlow|1973|p=317}}</ref>。
 
== 運命を変えた殺人 ==
{{quotation|去る5月4日水曜日、エッピングの森の管理者の一人ヘンリー・トムソンの召使いであるトーマス・モリスが、リチャード・ターピンによってキングと同じように野蛮な方法で殺害された。ロンドン近郊で行われたさらなる重罪、窃盗と今回の事件を受け、国王陛下は彼を発見し、逮捕、有罪判決につながる力となった者すべてに、陛下の偉大なる慈悲をもって200ポンドの賞金を与えることを約束された。ターピンはエセックス州タックステッド出身。30歳前後。肉屋。身長5~9フィート。褐色の肌。天然痘の後が目立ち、頬骨が張っている。顎は細く、背は低いが真っ直ぐと背筋が伸びており、肩幅が広い。<ref group="注">原文:"It having been represented to the King, that'' Richard Turpin ''did on ''Wednesday'' the 4th of ''May'' last, barbarously murder ''Thomas Morris'', Servant to ''Henry Tomson'', one of the Keepers of ''Epping-Forest'', and commit other notorious Felonies and Robberies near ''London'', his Majesty is pleased to promise his most gracious Pardon to any of his Accomplices, and a Reward of 200l. to any Person or Persons that shall discover him, so as he may be apprehended and convicted. ''Turpin'' was born at ''Thacksted'' in Essex, is about Thirty, by Trade a Butcher, about 5 Feet 9 Inches high, brown Complexion, very much mark'd with the Small Pox, his Cheek-bones broad, his Face thinner towards the Bottom, his Visage short, pretty upright, and broad about the Shoulders."</ref>|『ジェントルマンズ・マガジン』''The Gentleman's Magazine''(1737年6月)|<ref>{{Citation | last = Urban | first = Sylvanus | title = The Gentleman's Magazine: For JANUARY, 1737 | publisher = E. Cave at St. John's Gate | location = London | page = 370 | date =June 1737 | url = https://books.google.com/books?id=RNoRAAAAYAAJ}}</ref>}}
 
また複数の新聞が、5月6日・7日にターピンがエッピング近郊で2度の強盗を行ったと示唆している{{refnest|group="注"|これはありそうもないことである。追いはぎとしてのターピンならば地区に留まることも充分考えられるが、バーロが示唆するように、殺人者としてのターピンならばモリスの遺体からできる限り距離を置こうと考えるはずである<ref name="Barlowpp284286">{{Harvnb|Barlow|1973|pp=284–286}}</ref>。}}。ターピンはまた、自分の馬を失ったとも考えられている。これは、5月7日に、エリザベス・キングという女性が「赤獅子亭」でマシュー・キングが残した2頭の馬を手に入れようとしているためである。その馬は「追い剥ぎ」が所持していた疑いがあり、キングは逮捕されて聴取を受けていたが、刑罰を受けることなく釈放された。モリスの殺害でターピンの名は知れ渡り、逮捕に200ポンドの賞金がかけられた{{r|Barlowpp284286}}。
 
== ジョン・パルマーとして ==
この事件について詳細に記録を残した、イースト・ライディングの治安判事裁判所書記官{{enlink|Clerk of the Peace}}ロバート・アプレトンは、3人の治安官は「パルマー」が犯罪で生活していたのではないかと疑い、どうやって金を稼いでいたのか尋ねたことを記録している。ターピンは自分のことを、借金に苦しむ肉屋でリンカンシャー・{{仮リンク|ロング・サットン (リンカンシャー)|label=ロング・サットン|en|Long Sutton, Lincolnshire}}の家から借金を踏み倒して逃げてきたのだと説明した。そこでロング・サットンの治安官(デラメアという名だとされる)に連絡を取ったところ、ジョン・パルマーはそこで9か月間住んでいたが<ref name="Kyllpvi">{{Harvnb|Kyll|1739|p=vi}}</ref>、[[羊]]を盗んだ容疑をかけられ、地元の勾留所から逃亡したことが確認された。デラメアはパルマーが追い剥ぎではないかとも疑い、それを証明する供述録取書をいくつか揃えると、3人の治安判事にターピンを勾留したままにするようを進言した<ref name="Kyllpvi">{{Harvnb|Kyll|1739|p=vi}}</ref>。治安判事たちは、パルマーを更生施設に入れておくには事件が重大すぎると判断し、パルマーの保証人に[[ヨーク (イングランド)|ヨーク]]の{{仮リンク|巡回裁判|en|Assizes}}に来てもらうよう要求した。ターピンはこれを拒否し、10月16日に{{仮リンク|ヨーク城|en|York Castle}}に拘束された<ref>{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=11–14}}</ref>。
 
馬による追い剥ぎは、[[1545年]]に[[死刑]]に値する罪となった<ref>{{Harvnb|Beirne|2009|pp=40–41}}</ref>。[[17世紀]]から[[18世紀]]にかけて、財産の権利を侵す犯罪は最も厳しく罰せられており、200の資本法令のほとんどは財産侵害に関するものだった<ref>{{Harvnb|McKenzie|2007|pp=3–4}}</ref>。暴力を伴う窃盗は「死刑の次に重い犯罪(比較的少数の犯罪)で、最も厳しい方法で罰せられる」({{lang-en-short|"the sort of offence, second only to premeditated murder (a relatively uncommon crime), most likely to be prosecuted and punished to {{interp|the law's}} utmost rigour"|links=no}})<ref>{{Harvnb|McKenzie|2007|p=3}}</ref>{{refnest|group="注"|学者たちは、いわゆる「[[血の法典]]」が人名よりも財産に重きを置いているにもかかわらず、財産侵害で起訴された人物に処刑者がきわめて少ないことを指摘している。慈悲と自由裁量はイギリスの心理システムの根幹で、支配階級への利益供与や恭順を助長させた<ref>{{Harvnb|McKenzie|2007|p=4}}</ref>。}}とされた。ターピンはパルマーとして名を偽っている間にも、何度か馬を盗んだ。1737年7月、ターピンはリンカンシャー・{{仮リンク|ピンチベック (リンカンシャー)|label=ピンチベック|en|Pinchbeck, Lincolnshire}}で馬を盗み、{{仮リンク|ヘンプステッド (エセックス)|label=ヘンプステッド|en|Hempstead, Essex}}の自分の父親を訪ねるのに使った。ターピンがブラフに戻る時(道中、3頭の馬を盗んだ)、彼は父親に[[せん馬|去勢馬]]を残していった。ジョン・ターピンの息子の身元はよく知られており、その馬の持ち主もすぐに明らかになった。[[1738年]][[9月12日]]、ターピンの父ジョン・ターピンはエセックスの牢に馬の窃盗の罪で投獄されたが、脱獄を防ぐことに協力したことで刑は[[1739年]][[5月5日]]に免除された。その約1か月後、「パルマー」はヨーク城に移され<ref name="Kyllpvi">{{Harvnb|Kyll|1739|p=vi}}</ref>、ターピンに盗まれた3頭の馬の持ち主トマス・クリーシーは馬たちを取り戻すことができた。ターピンは、この馬盗みが原因となって裁判にかけられることになった<ref>{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=14–17}}</ref>。
 
ターピンは牢獄の部屋でヘンプステッドに住む義理の兄ポンパー・リヴァーナル({{lang-en-short|Pompr Rivernall|links=no}})に手紙を書いている。リヴァーナルはターピンの姉ドロシーの夫だった。手紙は地元の[[郵便局]]に保管されていたが、リヴァーナルはヨークの郵便局の切手が貼られているのを見て、「ヨークに知り合いはいない」と郵便料金の支払いを拒否した。リヴァーナルは郵便料金を支払いたくなかっただけという可能性もあるが、ターピンの事件に関わり合いたくなかったということも考えられている。そして手紙は{{仮リンク|サフロン・ウォールデン|en|Saffron Walden}}の郵便局に送られ、ターピンに読み書きを教えたジェームズ・スミスが彼の筆跡だと鑑定して、治安判事のトーマス・スタビングに通報した。スタビングはその手紙の郵便料金を払い開封してから、ヨーク城に向かい、[[2月23日]]にパルマーはターピンであることが確認された<ref>{{Harvnb|Sharpe|2005|pp=19–21}}</ref>。スミスは、トーマス・モリス殺害の後にニューカッスル公がかけた賞金の、200ポンド({{inflation-year|UK}}年の{{Inflation|UK|200|1739|fmt=c}}ポンドに相当)を受け取った{{Inflation-fn|UK}}<ref name="Sharpep24">{{Harvnb|Sharpe|2005|p=24}}</ref>。
 
== 裁判 ==