「楊慎」の版間の差分
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==知遇==
「大礼の議」に際して「抗節死義、正在今日」を率先してうたえ、嘉靖帝の怒りを恐れた四川官員に厳密な監視網をはりめぐらされ、帰郷を許されるべくもなかった。楊廷和の死に際して長子として極めて短期間に帰省滞在したほか、70歳を過ぎて放還の旧例にあやかろうとしたところを四川境内に入った途端、告発されて無残にひきずり戻らされた。また嘉靖帝は雲南から官員が来朝する度に楊慎の死期を心待ちにしていた。
黔国公沐氏の一族は彼をできるかぎり優遇し、文芸著述の環境を整えてあげた。今も滇池のほとり、竜門と筇竹寺五百羅漢殿のあたりにひっそりと升庵祠の祭祀が続いている。
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