「松山ホステス殺害事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
一部記述を微調整。
15行目:
犯行4日後、和子は[[松山駅 (愛媛県)|松山駅]]から急行列車と[[宇高連絡船]]で[[本州]]に逃亡、15年にも及ぶ当て所ない逃亡生活を始める。当初の逃走資金は60万円ほどであった。
 
和子は早速、金沢市内で求職するも34歳という年齢から[[飲食店]]関係に採用されなかったが、不採用であったスナックに飲みに行き情の深い経営者に採用された。採用2日後、整形手術を受けるため上京した後、店に戻り、そこで市内の[[和菓子]]屋の店主と知り合い交際し[[内縁]]関係となる。3代続く老舗和菓子を切り盛りし、店の売り上げも相当に伸びたという、また親戚と偽り実子を呼び寄せ店で働かせている。
 
3年後、[[指名手配]]書が全国に貼られ、和菓子屋の家族も和子の素性を疑い始め通報、店の知人の通夜の手伝い中に[[金沢中警察署]]員が斎場に急行したが、それを察知した和子は[[自転車]]で逃走し、[[名古屋市]]に向かう。市内の[[ラブホテル]]で住み込みの客室係として採用される。しかし、たまたま名古屋の[[緑警察署 (愛知県)|緑警察署]]に[[運転免許]]の更新に行った同僚が指名手配写真を見て、和子に自首を勧めたため逃亡、市内の別のラブホテルの[[面接]]を受けたが、その際、顔写真と、[[雇用契約]]の拇印をとられたため1988年5月13日名古屋市から離れ[[福井市]]に現れ、求職し住み込みでホステスをする。1992年[[大阪市]]内の売春宿に移るが、すぐに辞める。松山東警察署は、公訴時効が迫っていることに焦り始め、手配写真入りの[[テレホンカード]]の配布、肉声の公開、懸賞金100万円という近代警察史上前例のない捜査手法を採用した。
26行目:
[[1982年]]の犯行後、[[福田和子]]は[[東京]]へ向かい、整形手術で人相を変え、[[捜査機関]]からの追及をかわしていた。
 
その後[[金沢市]]で生活していることが判明したが、捜査が及ぶ直前に逃亡した。公訴時効成立を直前に迎えた[[1996年]]に松山東警察署は逮捕につながる情報を提供した者に対して100万円の報奨金を支払うとした上に、公訴時効直前には女性を整形した病院も400万円の報奨金を出すとして、マスコミの報道が熱していた。そうした中で、[[福井市]]の飲食店からなじみの客が手配者に類似しているとの通報があり、密かに採取した[[指紋]]が一致したために[[1997年]][[7月29日]]に逮捕された。時効成立まで21日前の逮捕であった<ref>過去には[[1990年]]11月に[[川崎製鉄専務夫人殺人事件]](1975年)の犯人が時効成立40日前に逮捕された例がある。</ref>。
 
その後、福田は15年ぶりに松山市に身柄を送致されて取調べを受け、1997年[[8月18日]]に殺人罪で[[起訴]]された。公訴時効が成立する11時間前の起訴であった。