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[[482年]](建元4年)、[[武帝 (南朝斉)|武帝]]が即位すると、虎頭は員外常侍の位を受け、南中郎司馬に転じ、寧朔将軍・[[南新蔡郡]]太守の位を加えられた。[[483年]]([[永明]]元年)、安成王征虜司馬に転じた。[[484年]](永明2年)、[[江州]]の少数民族が斉の統治に反抗して起兵すると、虎頭は兵を率いて尋陽に駐屯し、輔国将軍の号を受け、軍主として反乱を討った。さらに尋陽相の任を兼ねた。まもなく游撃将軍の号を受けた。武帝は虎頭の名をいやしんで、名を虎と改めさせた。
[[488年]](永明6年)4月、桓天生が魏軍を引き入れて隔城に拠ると、曹虎は数軍を率いてこれを討った。曹虎は輔国将軍の朱公恩に100騎を与えて先行させると、敵の遊軍と遭遇して撃破した。曹虎は隔城まで進軍して包囲し、敵の退路を絶った。斥候が北魏の援軍がやってきたことを報告すると、まもなく桓天生は兵1万人あまりで迎撃してきたが、曹虎はこれを撃破して、2000人あまりを捕らえた。翌日、隔城を攻め落とし、北魏の虎威将軍・襄城郡太守の帛烏祝を斬った。桓天生らは平氏城を放棄して敗走した。[[489年]](永明7年)、曹虎は冠軍将軍の号を受けた。[[490年]](永明8年)、太子左率となり、西陽王冠軍司馬・[[広陵郡]]太守に転じた。隨郡王[[蕭子隆]]が[[荊州]][[刺史]]となると、曹虎はその下で輔国将軍・鎮西司馬・[[南平郡]]内史となった。[[493年]](永明11年)、[[雍州]]刺史の王奐が武帝の召還の命にそむいて反抗したため、曹虎は王奐を拘束するべく数百の兵を率いて襄陽に向かった。王奐は司馬の黄瑤に城内で殺害され、王奐の子の王
[[497年]](建武4年)、北魏が沔北に侵攻してくると、曹虎は襄陽に軍を集めたが、[[南陽郡]]太守の房伯玉と合わず、樊城に移駐した。北魏の[[孝文帝]]とのあいだで書状を交わした。
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