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Yume149 (会話 | 投稿記録)
天啓追諡
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[[File:Yang Shen.png|thumb|200px|楊慎]]
'''楊慎'''(よう しん、[[1488年]] - [[1559年]])は、[[明]]代中国の[[文人]]。[[字]]は用修、号は升庵、別の號に博南山人、博南戍史がある。明末の諡は文憲。
 
== 生涯 ==
先祖の本籍は江西の廬陵。四川新都(現在の[[成都市]][[新都区]])に生まれる。父の[[楊廷和]]は少師大学士であった。4歳の時に母から唐代の絶句を教えられ、すぐに暗誦したという。12歳の時に祖母の訃報を受けた父に従って蜀に行き、そこで父から[[易経]]を教えられ、「古戦場文」という一文を作っている。文中「青楼は紅粉の魂を断ち、白日は翠苔の骨を照らす」という名句があり、人々に愛唱されたという。[[弘治 (明)|弘治]]14年([[1501年]])に渭城を通り過ぎた際、「送別の詩」と「霜葉詩」を作り、さらに「万葉詩」が後に吏部尚書となる詩人の[[李東陽]]に認められ、その門人となった。[[正徳 (明)|正徳]]2年([[1509年]])に四川の郷試を受験し抜群の成績で選抜され、翌年には祭酒・[[玉類]]が慎を試験した後に「いずれ天下の士となるだろう」と評した。正徳4年([[1511年]])に礼部尚書に入り、正徳6年([[1513年]])の会試には第2位、殿試の第1位となり、翰林修撰を授けられる。正徳9年([[1516年]])に経筵展書官となり「[[文献通考]]」を校訂する。慎は時の皇帝であった武宗[[正徳帝]]が宣府・大同・楡林などを軍人訓練と称して巡回し遊蕩にふけっていたことを憂い、たびたび切諫したが聴かれなかった。世宗[[嘉靖帝]]が即位し経筵(皇帝に対し講義をする役職)を開いたときにその講官となり「尚書」を進講した。[[嘉靖]]2年([[1523年]])に「武宗実録」を編纂。嘉靖3年([[1524年]])に父の[[楊廷和]]が[[大礼の議]]問題のために内閣大学士を辞任し、さらに[[桂萼]]・[[張璁]]らが起用されたことに反対し、皇帝に再三具申したために平民に落とされて雲州永昌衞に流刑となり、嘉靖38年([[1559年]])6月に没する。享年72。著述は百余種におよび、ほとんど3000巻に近いという。
先祖の本籍は江西の廬陵。四川新都(現在の[[成都市]][[新都区]])に生まれる。父の[[楊廷和]]は少師大学士であった。
 
4歳の時に母黄夫人から唐代の絶句を教えられ、すぐに暗誦したという。12歳の時に祖母の訃報を受けた父に従って蜀に行き、そこで父から[[易経]]を教えられ、「古戦場文」という一文を作っている。文中「青楼は紅粉の魂を断ち、白日は翠苔の骨を照らす」という名句があり、人々に愛唱されたという。[[弘治 (明)|弘治]]14年([[1501年]])に渭城を通り過ぎた際、「送別の詩」と「霜葉詩」を作り、さらに「万葉詩」が後に吏部尚書・大学士となる詩人の[[李東陽]](同じく神童の誉れが早くあった)に認められ、その門人となった。[[正徳 (明)|正徳]]2年([[1509年]])に四川の郷試を受験し抜群の成績で選抜され、翌年には祭酒・[[玉類]]が慎を試験した後に「いずれ天下の士となるだろう」と評した。
 
正徳4年([[1511年]])に礼部尚書に入り、正徳6年([[1513年]])の会試には第2位、殿試の第1位となり、翰林修撰を授けられる。後世の呉偉業とちがい、父が相国でもその成績を疑う人は出なかった。
 
正徳9年([[1516年]])に経筵展書官となり「[[文献通考]]」を校訂する。慎は時の皇帝であった武宗[[正徳帝]]が宣府・大同・楡林などを軍人訓練と称して巡回し遊蕩にふけっていたことを憂い、たびたび切諫したが聴かれなかった。世宗[[嘉靖帝]]が即位し経筵(皇帝に対し講義をする役職)を開いたときにその講官となり「尚書」を進講した。[[嘉靖]]2年([[1523年]])に「武宗実録」を編纂。
 
嘉靖3年([[1524年]])に父の[[楊廷和]]が[[大礼の議]]問題のために内閣大学士を辞任し、さらに[[桂萼]]・[[張璁]]らが起用されたことに反対し、皇帝に再三具申したために平民に落とされて雲州永昌衞に流刑となり、嘉靖38年([[1559年]])6月に没する。享年72。著述は前代の文史・雲貴川の地理以下百余種におよび、ほとんど3000巻に近いという。
 
==知遇==
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黔国公沐氏の一族は彼をできるかぎり優遇し、文芸著述の環境を整えてあげた。今も滇池のほとり、竜門と筇竹寺五百羅漢殿のあたりにひっそりと升庵祠の祭祀が続いている。
 
「二十一史弾詞」説秦漢、巻頭詞「臨江仙」のしらべは名高い。新都[[宝光寺]]に父子の像がたてられて今日まで丁重に扱われていほか、成都府に残されるほかなかのこった後妻の黄峨(母の姪)との唱和が数多くあり、黄峨は再嫁せず、隆慶改元の後まで生きて彼の文集を整理した
 
== 著作 ==