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== 歴史 ==
[[画像:Tabad(ca1905).jpg|thumb|[[1905年]]頃の広告。コルク栓を備えたタバスコ瓶が、牡蠣の貝殻の中に置かれている。]]
マキヘルニー社の創業者は、[[ニューオーリンズ]]で銀行家をしていた[[メリーランド州]]出身の{{仮リンク|エドモンド・マキルヘニー|en|Edmund McIlhenny}}([[1815年]]生-[[1890年]]没)である。[[スコットランド]]人と[[アイルランド]]人の血を引く、ひげを蓄えた美食家だったといわれている。
 
[[南北戦争]]の頃、エドンドは[[メキシコ]]の[[タバスコ州]]から帰還した南軍兵士(フレンド・グリーソンと考えられている)から[[唐辛子]]の種を入手したとされる。[[1862年]]にニューオーリンズが北軍によって陥落したため、マキヘルニー一家は[[岩塩]]の産地として有名だったエイヴァリーアイランドへと移り住み、そこで唐辛子の種をまいたという。ところが、南軍に塩を供給していた関係で北軍の攻撃にさらされることになり、さらに[[テキサス州]]へと逃れた。終戦後の[[1865年]]に戻ってきたとき、すっかり荒れ果てていた土地に、一株のタバスコペッパーが生えているのを見つける。
 
エドンド・マキヘルニーはタバスコペッパーの果実をとって潰し、出てきた汁に蒸留酢と塩を混ぜたとされる。それから3年後の[[1868年]]、このソースを香水の空き瓶に詰め、卸売業者を通じて350本売った。そのときの香水の瓶は、今日のタバスコソースの瓶の形に受け継がれている。[[1870年]]に、彼は自ら考案したタバスコソースの製法を特許登録した。現在では全世界100カ国以上で販売されている。
 
タバスコが最初に日本に入ってきたのは昭和20年代といわれる。その後、喫茶店やレストランなどに置かれる様になると一般にも認知される。