「儒学者」の版間の差分

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== 日本における儒者 ==
儒教が日本に伝来した古代から中世には、[[紀伝]]・[[明経]]・[[明法]]・[[算道]]の四道を講じる者を'''四道儒者'''と呼称し<ref name="国史大辞典" />、[[清原氏]]、[[中原氏]]などの博士が儒者のこの頃の儒者の代表例である<ref name="ニッポニカ">{{harv|黒住|1986}}</ref>。ただしこの頃は経典は漢籍の一環として博士・仏僧・神などの各職域・身分において学ばれており、「儒者」という職業や身分は存在しなかった<ref name="国史大辞典" /><ref name="ニッポニカ" />。儒者の職・社会的身分が成立するのは近世以降のことである。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の末から[[江戸時代]]初期に、政治・学術的知識が儒学に求められ、中国・朝鮮の漢字文献の輸入・流通が拡大した<ref name="ニッポニカ" />。それによって儒学の転籍を読解・講釈する専門家が出現し、これが'''儒者'''と呼ばれるようになった<ref name="ニッポニカ" />。[[江戸幕府]]が[[林羅山]]を登用して以来、幕府に'''御儒者'''(おじゅしゃ、おずさ)という役職が設けられた<ref name="国史大辞典" />。これは将軍に経典を講じ、文学や学問を司る職であった<ref name="国語大辞典">{{harv|日本国語大辞典第二版編集委員会|2001}}</ref>。林家は3代目の[[林信篤]]以降は[[従五位]]に叙され家禄3500石を受けた。また、[[新井白石]]は1000石の禄を得ている。このような林家・新井の待遇の例はあるものの、一般の御儒者の家禄は200から300石程度であり、[[天保]]以降は[[教授所]]に勤める儒者は15~30人扶持であった。諸藩においても、[[野中兼山]]が10000石、[[熊沢蕃山]]が3000石を執政・番頭の禄として得ていた例をのぞけば、200石以下が一般的であった<ref name="国史大辞典" />。