「バーナード・バルーク」の版間の差分

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その結果としてルーズベルト政権が成立した1930年代には、強大化した政治的な影響力を利用し、公的にも金融界の大物から長老政治家というスーパーエリートへ転身を遂げることに成功。[[フランクリン・ルーズヴェルト]][[大統領顧問 (ホワイトハウス)|大統領の顧問]]として大いに専権を振るった。
 
[[ハリー・トルーマン]]政権でもその影響力は低下することなく[[国際連合|国連]]原子力委員会の米国代表に選ばれ、[[バルーク案]]によりアメリカの[[核兵器|核]]独占による世界平和を唱えた。[[冷戦]]という言葉を初めて使い、<ref>Gaddis 2005 , p.54</ref>それが国際政治の定理を意味する言葉になった事実を見ても、彼の特権的な地位を証明している。
 
== 概要 ==
なお、原爆の開発を主導したマンハッタン計画にも関わっており、京都への原爆投下を主張していたと言われている。
 
彼がルーズベルト時代に行った数々の”提言”によってアメリカが第二次大戦における”最大の勝者”となったことは紛れも無い事実であるが、同時にソビエトの領土拡大を妨害し続けていた日本とドイツを徹底的に攻撃叩き潰事で、”ソ連の延命のみならず共産その勢力伸張を実現させた”ことは紛れも無い事実であり、その戦略全体を見るとまるで世界を資本主義と共産主義に二分することで世界規模の冷戦状態を現出させるという方向性を持っていたことは事実である
 
この冷戦が平和時における戦争経済体制の継続につながり、彼の古巣のアメリカ産業界に莫大な利益をもたらす結果となったことも事実であったが、それが成り行き任せの結果だったのか、計算を働かせた上での結果だったのかはついに本人の口から語られることは無かった。