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忠季以降の下国家は、檜山築城や寺院建立を行う一方で夷島の経営にも努め屋形号を称したため、檜山屋形とも呼ばれる<ref name=kannihonkai117/>。しかし、次第に夷島が下国家の統制から離れ始め、特に夷島において被官であった蠣崎氏が上国守護職に加えて松前守護職を名乗ったことを追認せざるを得なくなるなど<ref name=hakodate336>[[#hakodate|函館市 1980]],p.336-337</ref>、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]前期には実質上北出羽の一豪族となった。
 
下国家は'''東海将軍'''、'''日之本将軍'''を称して内外に出羽、陸奥北部から夷島にかけての支配圏を内外に誇示しようとしたとされているが、これには否定的見解も出されている<ref name=uchi59>[[#uchi|入間田 1999]],p.59</ref>。舜季は、[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])夷島に渡り[[夷狄の商舶往還の法度|蠣崎氏とアイヌとの講和]]を仲介するなど蝦夷に対する一定の権威を示し<ref name=ezo115>[[#ezo|海保 1996]],pp.115-116,p.145,pp.161-164</ref>、以後も蠣崎氏の徴収する[[関銭]]の大半を上納させ、[[軍役]]を課している<ref name=matsumae>[[#matsumae|海保 1976]]</ref>。一方で日本海海運の拠点であった[[小浜市|小浜湊]]に代官[[関戸氏]]を置いていたとの見解もあり<ref name=sekito>[[#sekito|遠藤 1992]]</ref>、北日本海に止まらない活動範囲も指摘されている<ref name=kannihonkai127>[[#kannihonkai|遠藤 2002]],pp.127-129</ref>。
 
==== 湊家(湊安東氏) ====
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