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=== 帰国後 ===
慶応3年([[1867年]])5月13日には[[大坂町奉行]]、7月9日には[[遠国奉行#兵庫奉行|兵庫奉行]]を兼務して、当時[[八部郡]]二茶屋村にあった[[善福寺 (神戸市長田区)|善福寺]]を宿所とし、もっぱら[[外国人居留地]]問題などの外交問題を担当した。兵庫(神戸)については、運上所や埠頭・居留地の造成、西国往還の付け替え工事(徳川道の造成)などを進め、慶応3年12月7日(1868年1月1日)、大坂・兵庫開港市の式典を迎えている。開港当日、柴田剛中は、まず税館(運上所)を開き、英、米、仏、晋、蘭等の公使・領事等出席の下、開港式典が行われ、西洋の新年への賀と兵庫開港・大坂開市の賀を申し述べる旨の宣言書を読み上げた。

慶応4年(明治元年/[[1868年]])の[[鳥羽・伏見の戦い]]での幕府軍の敗北と[[徳川慶喜]]の[[江戸城]]引揚に際して[[運上所]]施設の明け渡しなど対外的な事後処理を終えた後の1月17日に外国奉行以下を罷免され、隠居願を提出、同年4月に認められて所領のある[[上総国]][[山辺郡 (千葉県)|山辺郡]]富田幸谷村に退いた。その後もその見識と人物を評価されて[[明治政府]]より出仕要請が出されるが、これを辞退する。ただし、政府に請われて上京して外交問題に関する諮問に応じたという。
 
引退後、東京では神田淡路町に屋敷を構え、こちらで亡くなっている。