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=== 最盛期 ===
[[9世紀]]以降、唐と吐蕃が国力を衰退させると、南詔は唐との同盟を翻し、[[829年]]に{{仮リンク|クェンフォンユウ|zh|勸豐祐|vi|Mông Khuyến Phong Hữu|label=勧豊祐}}は長駆して成都を襲った。成都占領の外城をは成功し、南詔軍は略奪の限りを尽くして引き上げた。その後、南詔軍は矛先を南に転じて、[[東南アジア]]の[[ミャンマー|ビルマ]]、[[タイ王国|タイ]]、[[ラオス]]、[[カンボジア]]などを攻め、海の見えるところにまで達したという。また、ビルマの[[ピュー]]の人々も南詔軍に襲われ、雲南地方に移住させられたという。
 
[[859年]]、時の南詔王{{仮リンク|シーロン|zh|世隆|vi|Mông Thế Long|label=世隆}}はついに[[皇帝]]を自称し、[[国号]]を'''大礼国'''と名乗った。翌年、南詔軍は中国領[[ベトナム]]を攻め、交州([[ハノイ]])の安南都護府を攻略、おりしも唐は[[黄巣の乱]]によってなすすべもなかった。
 
反乱軍に追われて成都に逃れていた唐の[[僖宗 (唐)|僖宗]]は、南詔を懐柔する必要に迫られ、[[883年]]に[[公主]](皇帝の娘)の{{仮リンク|安化公主 (唐朝)|zh|安化公主 (唐朝)|label=安化公主}}を南詔王{{仮リンク|ロンシュン|zh|隆舜|vi|Mông Long Thuấn|label=隆舜}}に降嫁させるつもりだったが、反乱が終ったわったため、実現しなっか
 
=== 滅亡 ===