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[[859年]]、時の南詔王{{仮リンク|シーロン|zh|世隆|vi|Mông Thế Long|label=世隆}}はついに[[皇帝]]を自称し、[[国号]]を'''大礼国'''と名乗った。翌年、南詔軍は中国領[[ベトナム]]を攻め、交州([[ハノイ]])の安南都護府を攻略、おりしも唐は[[黄巣の乱]]によってなすすべもなかった。
反乱軍に追われて成都に逃れていた唐の[[僖宗 (唐)|僖宗]]は、南詔を懐柔する必要に迫られ、[[883年]]に[[公主]](皇帝の娘)の{{仮リンク|安化公主 (唐朝)|zh|安化公主 (唐朝)|label=安化公主}}を南詔王{{仮リンク|ロンシュン|zh|隆舜|vi|Mông Long Thuấn|label=隆舜}}に降嫁させるつもりだったが、反乱が終
=== 滅亡 ===
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