「野球拳」の版間の差分

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宴会芸としての野球拳の知名度が上がっていく中、一部にはじゃんけんに負けた際の罰ゲームとして酒を飲んだり服を脱いだりするといった例も見られた。それらに心を痛めた俳人の[[富田狸通]](伊予鉄出身で前田の後輩にあたる)は、[[昭和40年代]]、本来の野球拳を伝えようと前田を宗家とする家元制度を作り、富田がその初代家元として野球拳普及に努め、前田作の1番の歌詞に加え、2~4番の歌詞作成を行った。<ref name=":0" />
 
その後、富田の友人で伊予鉄社会人野球選手の後藤二郎が二代目家元を務め、[[1989年]](平成元年)には歌手の澤田藤静が三代目家元に、[[2002年]](平成14年)からは[[和太鼓]]奏者であり澤田藤静の息子の[[澤田剛年]]が現四代目家元を務める。と自称しされているが、なぜ歌手や和太鼓にひきつがれたのか、そのいきさつを示す文献や証言者は他にはいない。<ref name=":0" />
 
また野球拳は「[[松山まつり]]」でも取り入れられ、[[1970年]](昭和45年)から各団体の連(踊りのグループ)が街を練り歩くようになった、松山市制百周年記念の[[1989年]](平成元年)からは[[サンバ (ブラジル)|サンバ]]調の野球サンバも加わるようになった。また、[[1969年]](昭和44年)からは[[松山城 (伊予国)|松山城]]で[[本家野球拳全国大会]]が行われている。